ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(309)
サンパウロ州のそれは、海岸山脈の山中タピライに拓いた茶の団地で、組合員三〇人が入植、製茶工場も建設した。
そこで紅茶にして輸出したのであるが、国際市況に振り回され、資金繰りが逼迫、事業は行き詰まった。
リオ州では、マカエにトマテの団地が造られ、四〇人が入った。
ここは土地は肥沃であったが、雨季になると冠水するという難癖があった。
組合は州政府と交渉、排水のための八㌔の水路を建設して貰った。が、翌年、豪雨が襲来、上流から押し寄せてきた物凄い量の濁流が水路から溢れ、両側のトマテ畑に浸入した。トマテの支柱の先端が、水面でフラフラと揺れていた。
革命!
ところで、一九六〇年代、ブラジルでは巨大な異変が勃発している。六四年三月末の軍部によるクーデター、四月の革命政権の出現である。
そこに至る経緯は、簡単に記せば、次の様なものであった。
一九五〇年代後半、大統領クビチェックが壮大な経済発展政策を進めたことは、前章で触れたが、これは規模相応の資金を必要とした。
さらに首都ブラジリアの建設で、国家の財政赤字は限度を大きく超え、窮した政府は通貨の増発に走った。
ために悪性インフレが発生した。
六一年発足のゴラール政権下でも、そのインフレが昂進、六三年には八〇㌫を超し、翌年には一五〇㌫になる…と危惧された。
国民生活は窮迫、一般大衆に共産主義が浸透、ゴラール自身も急速に左傾化した。
それを見て、外国企業の投資が止まった。
ここで軍部が動いて、クーデターを起こした。それは成功した。
この時成立したカステロ・ブランコ革命政権は新政策を次々と打ち出した。農業界に対しても、そうであった。
組合員が大膨張
その最中(さなか)奇態な現象が相次いだ。
まず、ある程度以上の組合では、組合員が大膨張した。
例えば日系の場合、一九六〇年代末には、コチアは一万五、〇〇〇人、スール・ブラジルは六、五〇〇人という数になっていた。
一九五〇年代末、コチアは六、〇〇〇人、スールは三、〇〇〇人であったから、倍以上であり、奇態そのものである。
何故、そういうことが起きたのか?
起きたのは、次の様な因果関係による。
政府は、農業振興策として恩典付き融資というものを始めた。
これは、利子を予め低く押さえ、返済時にはインフレ分は加算されないことになっていた。インフレは利子をかなり上回っていたから、差額分は利益となった。
制定されたのは六五年で、翌年からバンコ・ド・ブラジルを通して実施された。
営農用の運転資金や農機具類への投資資金が、融資された。農業者には魅力的なものであった。
ただ、融資を受けるための手続きが厄介だった。バンコ・ド・ブラジルの支店へ何度通っても、書類の不備を指摘され、受け付けてくれないのである。
それが、組合を通して申し込むと、スムーズに行く。無論、組合が保証するためだが、バンコ・ド・ブラジルが、小さな融資を一つ一つ受けつけるのを嫌がったこともある。
政府は、この農業融資を、民間銀行にも義務づけた。こちらも組合を通して行った。
そこで組合に非加入の農業者は、組合に駆け込んだ。ことの性格上、小組合は避け、銀行に押しの利きそうな処を選んだ。
これで、組合員が一挙に大膨張したのである。(なお、この頃、農業融資など信用業務は、各組合が別個に信用組合をつくって行うことが義務付けられた。ためにグループ企業として、それを設立した)
抜け売り激増
同時期、もう一つ奇態な現象が発生した。
組合員の組合への出荷が激減、仲買商への抜け売りが激増したのである。
次の様な珍事も起きた。
コチアのマークを車体に大きく描いた輸送車が、組合員の出荷物を満載して──この頃サンパウロに完成した大型卸売りセンター──セアゼスペに入る。
ところが、コチアの販売ポストの前を素通りして、仲買商のポストに行き、荷を降ろしてしまう(!)
輸送車は、組合員が部落(地域単位の組合員組織)ごとにつくった出荷組合が管理していた。従って、部落ごと堂々と抜け売りしたことになる。
組合のお陰で入手した恩典つき融資で作った生産物を、仲買商へ抜け売りする。それも部落ごと(!)
これは極端な例だが、抜け売りはコチアに限らず、他の組合でも雪崩の如く…となった。(つづく)









