ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(311)
バストスの養鶏組合員が必要とする飼料用とうもろこしを買付け、生産する鶏卵を販売することが当初の目的だった。
北パラナ地方は、この頃は、コロニア農業者の大集団地になっていた。
主作物はカフェーであった。その生産者たちは、強力な組合を必要としていた。そこでコチアに加入してカフェーの取扱いを始めるよう繰り返し本部へ要求した。
当時、コチアはカフェーは扱っていなかった。専務の下元健吉が慎重だったのである。
カフェーに手を出すと、国際的な商社と競合することになる。相応の知識や技術、そして資金が必要だった。
実は下元は内心、カフェーの様な国際商品を事業に加えることを望んでいた。が、自信が無かったのである。
彼は剛毅な反面、極めて現実的だった。
カフェー生産者たちは、この下元に苛立ち、自ら研究会を設けて、問題解決に取り組んだ。彼らの中心人物だったのが小笠原である。
研究会が対策を文書にまとめた。それを持って小笠原がサンパウロの本部まで行き、下元に提出した。が、返事は変わらなかった。
コチアに於いては、下元が駄目と云えばダメであった。
小笠原は、自分の発言力の弱さを痛感した。以後、北パラナの事業所の新設に躍起になった。その結果、組合員数は急増加、本部への発言力も、それに平行して強大になって行った。
数項目前の「積極果敢…の実際」で記した現地側の思惑とは、こういうことであった。
五七年、下元が急逝した。翌年、カフェーの取扱いは実現した。
六三年、小笠原は組合理事になった。
六六年、既述の様に、コチアは中央会・単協制へ組織変えをしたが、その時にできた単協中、北パラナは、中央会の総会へ送り込む代議員の数が、他に比較、圧倒的に多い勢力になっていた。
さて病院の話に戻ると。──
前記の様に、小笠原は、開院中止、売却を要求、理事会に認めさせた。
北パラナは、これ以前、大霜害を受け主作物のカフェーが壊滅的打撃を受けていた。その手当てのための資金が幾らでも必要だった。それを本部に捻出させねばならなかった。
無論、医療器具購入のための新しい資金負担などもってのほかであった。
さらに小笠原は、
「サンパウロに、そんなものを作っても、北パラナから病人を連れてくる間に、死んでしまう」
とまで言い切った。
しかし、これは下元の遺志の否定を意味した。
その遺志の継承を使命とするゼルヴァジオにとっては、衝撃的な挫折であった。
中止・売却ではなく、延期の線で食い止めるべきであったろう。それすらできなかったのだ。
なぜ、できなかったのか…について、ずっと後年になって当人に質問した人がいる。組合の職員で病院の設計をした河合武夫(建築技師)である。
二人の会談を取り持った石井久順(コチア出身。退職後もゼルヴァジオと親しい関係にあった)の記憶では、河合はこう訊いたという。
「次の総会での、北パラナの票を意識したのか?」
小笠原が、その気になって、利害が共通する他の単協幾つかと組んで総会に臨めば、選挙でゼルヴァジオを落とすことくらい、たやすいことであった。
河合の質問に、ゼルヴァジオは沈黙したままであったという。
ここで意外だったのは、小笠原が産青連の盟友であったことだ。
下元が燃え上がらせた産青連運動の中で育った小笠原によって、下元が追求した新社会のシンボル病院が開院寸前、蜃気楼の様に消えてしまったのである。
中止・売却が決定した日、ゼルヴァジオは呆然として帰宅、夫人に、それを洩らしたという。
貴公子ゼルヴァジオも、組合内部ではファビオ、谷垣そしてこの小笠原との関係で、心中には嵐が吹き続けていたことになる。
人間社会とは、そうしたものなのであろう。
バンデイランテ破綻
コチア以外に目を転ずる。
一九六八年九月、バンデイランテ産組の経営破綻が、表面化した。
同月二十八日、総会を開いたものの、出席者が定足数に達しなかった。
数時間遅らせて開会した会場で発表された年間決算は、以下の如く無残な数字だった。(単位は新クルゼイロ。前年デノミが行われていた)
収入=二八七万
支出=五七一万
欠損=二八四万
このほか、組合の負債が一、〇〇〇万あり、資産評価とほぼ同額であった。
組合員は登録四、〇〇〇人に対し、実数は一、六〇〇人。
出荷量も激減していた。(つづく)









