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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(312)

2025年12月20日


総会の前日、ある幹部職員が、

「最悪事態です。ここまで追い込まれたら、どう足掻いても無駄」

と悲鳴を上げていたというが、その通りだった。

最悪化の主因は、借入金に頼っての過剰投資であった。

二十二カ所の地方出張所、その他の各種施設を銀行融資でつくっていた。

その金利が嵩んできたところに、商品流通税の痛棒を食らった。資金繰りのため高利の金に手を出し、これが自らトドメを刺す形となった。

原田実専務の、この日の姿は痛々しいほどだった。途切れ途切れの報告の中に、次の言葉があった。

「今日の醜態は、経営陣の無能と金融面の不手際によるもの。私の目が見えていなかった…」

施設を増やしたのは、前章で触れたが、スール・ブラジルに対する競争意識からであった。

同じ日、そのスールも総会を開いていた。

こちらは刻限どおり開会され、整然と進められた。その年間決算は、

収入=八三二万

支出=八〇六万

剰余金=二六万

と、僅かながら剰余金を計上していた。

翌日の邦字紙の紙面に、並べて大きく掲載された二つの総会風景は、余りにも対蹠的であった。

それが、中沢源一郎の堅実経営の評価を高めることにもなった。

もっとも、この総会で、中沢は商品流通税の打撃を訴え、組合員の家族的団結を、涙を流しながら訴えたという。

産組中央会のことにも、少し触れておく。

中央会に参加している組合は(資料類のデータに混乱があるが)一九五九年の二十四が六九年には三十六になっていた。

日系は十六に減り、非日系が多くなっていた。

主事業は、販売部門は鶏卵と綿、購買部門は雛であった。

一九六八年選出の役員はピーザ理事長以下、専務理事八木健次、常務理事一人(非日系)、理事二人(日系)であった。

ただ、この中央会の活動は、この頃から衰えて行く。商品流通税の打撃を受け、さらに所属する地方の単協の組合員の脱退が増えていたためである。

同時期、モジ産組も、やはり流通税の打撃で経営が行き詰まっていた。後に解散する。


米国のテコ入れ


ところで、一見、不可解な事実が存在した。

先に記した恩典付き融資に関して…である。革命政権は、その財源を何処に求めたのか?

同政権発足時、国の財政は破綻しており、財源などある筈はなかった。

ところが、経済の振興策を推進しようとした。

革命への経緯については前記したが、根因はやはり、この国の「貧しさ」にあったからである。

その財源として選んだのは、外資であった。

外資の流入は、六四年以降、急に増えており、関連資料類は、その理由を「革命後のブラジル経済安定の成果」などと解説している。

が、六四年といえば、革命政権ができたばかりであり、未だ安定などという評価は早計であった筈だ。

特別の国が特別の思惑…すなわち政治的理由で、資金協力をしていたのである。

その特別の国とは米国であった。政府機関が資金を出していた。

さらに、そのコントロール下にあった国際金融機関(米州開発銀行、世界銀行)からも出ていた。

この種の資金は、低利長期の融資で、入手する側には都合が良い。が、簡単には入手できない。現に革命以前は殆ど入っていない。

それが六四年以降、入っている。では、米国は、何故そうしたのか?

ここで一九六〇年代の米の動きを、簡単に整理しておく。

六一年。

ジョン・F・ケネディーが大統領に就任。

キューバ侵攻に失敗。

代わりに「進歩のための同盟」という名称のオペレーションを展開、ラテン・アメリカへの総額二〇〇億㌦以上の経済協力を決定。

これは無論、共産化阻止を目的とした資金援助である。

六三年。

キューバ危機。

ケネディー暗殺。

この間、米国はヴェトナム戦争の泥沼に、足をとられていた。

六四年、戦争は一段と深刻化、北ヴェトナムを支援するソ連と米国の緊張関係が強まった。

米はヴェトナムで戦いながら、他の国々の共産化に神経を尖がらせていた。

アチコチで火の手が上がると、多方面作戦を強いられる。特にラテン・アメリカでは、キューバが米の脇腹にナイフを突きつけた形になっており、これ以上の共産主義国の出現は、絶対避けねばならなかった。

ところが、ブラジルがこの時期、左へ傾いた。グラリと。米はヒヤリとしたであろう。

幸い、第二のキューバ化は阻止されたが、革命政権が国民の支持を得ることが出来るかどうかは、まだ不明であった。(つづく)


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