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俳句が結んだ新潟とブラジル=中田みづほと佐藤念腹

2026年1月17日

『中田みづほの百句 日本脳外科の父』表紙
『中田みづほの百句 日本脳外科の父』表紙

ふらんす堂が刊行する俳句の精華を百句でたどる「百句」シリーズに、昨年10月、『中田みづほの百句 日本脳外科の父』(中本真人著)が加わった。高浜虚子の門下として「ホトトギス」俳句の正統を歩んだ中田みづほ(本名・瑞穂、1893―1975年、島根県出身)の句業をたどる本書は、同門で「ブラジル俳句の父」とも称される佐藤念腹との関係に随所で目を配る構成が特徴的だ。両者の名は、全編にわたり10カ所に及んで言及され、読みどころの一つとなっている。

中田みづほは、新潟大学を拠点に日本の脳神経外科の基礎を築いた医学者として知られる。一方で俳人としては、東京帝国大学の医学生時代から高浜虚子に師事し、新潟に移ってからは俳句雑誌『まはぎ』を主宰した。佐藤念腹にとって、高野素十と中田みづほの二人は特別な存在であり、虚子に次ぐ自身の師であると語っている。

佐藤念腹(本名・謙二郎)は1898年、新潟県北蒲原郡笹神村笹岡(現・阿賀野市笹岡)に生まれた。15歳で虚子主宰の句誌『ホトトギス』に投句を始め、1927年、30歳で両親、新妻、弟妹を伴い、開拓移民としてブラジルへの渡航を決意する。その門出に際し、虚子は〈畑打って俳諧国を拓くべし〉の一句を揮毫した短冊を「はなむけ」として贈った。

虚子が掲げた「客観写生」の理念を、移民社会に根づかせようと、念腹はアマゾン近くにまで足を運び句会を開いた。そうした指導の行脚を、1979年に80歳で没するまで続けた。当地の邦字紙で俳句欄の選者を務め、俳誌『木陰』を創刊。直接の門人は約200人、間接的には6千人に及んだとされる。

写生の厳格さと骨格の強い表現で知られる念腹に対し、みづほの句には、対象を見つめるまなざしの柔らかさや、言葉の運びににじむ余情が感じられる。本書に収められた百句は、その差異を際立たせつつ、同じ師を仰いだ俳人たちの多様なあり方を静かに伝えている。

新潟を舞台に育まれた二人の友情も、句と解説から浮かび上がる。念腹が34年ぶりに帰郷したのは1961年のことだった。虚子忌に参じ墓参を果たすとともに、父母の遺骨を故郷に納めた。出湯温泉には、その折に念腹の句碑〈ブラジルは世界の田舎むかご飯〉が建立されている。

翌年、中田みづほは〈かなかなや念腹の句碑すでに古り〉(昭和37年)と詠んだ(192頁)。「かなかなや」は夏の終わりから初秋にかけて鳴く蝉の声を表す秋の季語で、心の奥に染み入るような寂寥を帯びる。念腹が再び祖国の地を踏むことはなかった。

本書は、作品選を通じて、佐藤念腹ら同門との関係性の中で形づくられた中田みづほの俳句世界を照らし出す。俳壇史の表舞台では脇に置かれがちな交流の層に光を当て、師と弟子、そして弟子同士の応答が生んだ表現の広がりを、抑制の効いた筆致で伝える一冊だ。



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