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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(353)

2026年3月5日


 組合員の多くは二世が占め、彼らは仲買商や資材商と、軽々と取引をする様になっていた。

 堅実経営の神話は、精神面でも崩れていたのである。

 なお、この八九年、スールはサンパウロ、パラナ、リオ・デ・ジャネイロの三州に三十八単協を擁し、パラー、バイア、ミナス三州の地元の三組合と提携していた。

 取扱い品目は、販売部門は果実が最も多く、そのほか鶏卵、蔬菜、カフェー、大豆、バタタ、小麦などであった。

 購買部門は肥料、養鶏飼料、農薬が主であった。

 総事業量は、ひと口に年間一億㌦と概算されていた。

 従業員は一、三〇〇人ほどであった。

 八九年は、組合の創立六十周年に当たった。十二月、記念式典が催された。しかし、式はごく簡素に行われた。経営環境の厳しさを考慮したのである。

 次、つまり七十周年の折は、もう少し華やかな内容で…と誰もが望んでいた。が、コチアと同様、次は無かった。その時点では、スール・ブラジル農協は存在しなかったのである。

 この一九八〇年代末、ソ連や東欧諸国の社会主義政権が相次ぎ倒れた。ベルリンの壁は崩され、東西冷戦は終結、ソ連邦は消滅寸前だった。

 数年前には、全く予想できなかったことである。

 何事が起きても、不思議ではない時代だった。


 南銀役員人事


 狂騰金利で苦しむ業界もあれば、その反対の業界もあった。

 銀行界は、融資利子の上昇、顧客の余剰資金のオーバー・ナイト運用で、高収益を上げていた。

 南米銀行も、年々、好決算を発表しておった。

 支店は、一九八九年には百二十七カ所に増え、全伯二十一州に営業網が広まりつつあった

 業界では、中堅上位行の地位を維持していた。

 グループ会社は、南米銀行が南米投資銀行ほか数社を合併、バンコ・ムルチプロ=総合銀行=へ組織変えしたため、数は減っていた。

 従業員総数は一万一、〇〇〇人、九割程度が南米銀行の行員だった。

 橘会長は、ブラジル日本商工会議所の会頭をつとめ、コロニア…というよりも、この場合、日系社会と表現した方が似つかわしかろう…その代表的存在と目されるようになっていた。八九年時点で七十七歳、熟成した貫禄を漂わせていた。

 南銀の社長は、吉田揚助前副社長が継いでおった。

 これより先、次期社長候補であった武藤一郎副社長が急逝したため「俺はブリッジ・ローンだヨ」と自認しつつ、そのポストについた。次期社長が決まるまでの繋ぎ役という意味である。

 なお、右の三人は、戦前一世である。

 次の社長には伝田耕平副社長、副社長には倉持紀(はじむ)専務…の線が有力になっていた。

 二人とも二世である。五十代の若さであった。

 この人事は橘の構想によるもので、銀行の最高幹部の椅子を、戦前一世から二世へ、直接譲ることを意味していた。コチアの人事とソックリだった。

 南銀の役員には、戦後一世が何人かいた。が、その筆頭の坂口孟(はじめ)専務は、すでにグループ会社の南米リース社長に移されており、後任には、やはり戦後一世の花田好二がなっていた。いずれも六十代であった。

 戦後一世は専務止まり、後はグループ会社へ…という方針が固まっているようであった。

 南銀には、終戦後、宮坂国人が訪日を機会に、呼び寄せた七人を初めとして二十数人の戦後一世がいた。

 その七人に、宮坂の次席だった加藤好之(一九六三年没)は、

 「経営は、いずれ二世に任せる。君たちには中継ぎを…」

 と話したこともあった。

 その後、戦後一世は殆どが退職してしまったが、数人が残って役員となっていた。しかし、中継ぎ…という部分が反古になっていた。(つづく)


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