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《特別寄稿》コチア青年移住者 横田尚武氏の生涯=「セラード開発の戦士」の生き様=蛸井 喜作、中沢宏一

2022年11月8日

セラード開発に身を投じて踏ん張る

蛸井さん、中沢さん、横田さん
蛸井さん、中沢さん、横田さん

 セラード開発の戦士と自称していた横田尚武さん(長野県飯田市出身)が埼玉県の病院で9月21日亡くなっていました。コチア青年の仲間でも「変わり者」「奇才」と呼ばれていた横田らしく、1カ月後に知ることとなりました。81歳でした。
 横田は1960年、18歳でブラジル移住し、順調に独立。結婚して5人の子供に恵まれた。バタタ栽培事業を順調に伸ばして、コチア産業組合では顔が利くほどの生産成功者になりました。
 1986年、40歳前半の働き盛りの横田は、コチア産業組合中央会が計画しているバイア州バレイラスのセラード開発を知ることとなりました。
 そこにはまだ開発されていない400万ヘクタールもの超巨大平原台地のセラード地帯がありました。

横田さん(1984年)
横田さん(1984年)

 2万ヘクタールのセラード開発計画に三十数名が参加しました。横田の共同経営プランに賛同したアチバイアの黒木、小林、中沢は、男のロマンを求めて、合計2400ヘクタールの開発事業を開始しました。
 セラード開発は連邦及びミナス州政府の国家的プロジェクトでありました。コチア産業組合は73年にミナス州サンゴタルドで試験栽培を始めました。74年田中首相の来伯とイゼル大統領の訪日で、国としては唯一、日本国がセラード開発事業に協力参加することとなりました。
 ブラジル経済は70年代の奇跡の好景気から一転して、失われた80年代と呼ばれる不景気へと突入しました。1985年3月に軍政が終わり、民政に移行。クルザード政策で物価凍結したものの破局し、インフレが再熱。農業関係では84年に南部の農業者への特別融資が縮小され、86年には打ち切られました。そうした中でも、セラード地帯開発は継続しておりました。
 しかし、植え付けが始まった87年、ポロセントロ地帯の特別恩典が全て消滅してしまいました。88年には1000%、89年1700%とハイパーインフレが続きました。
 ブラジルの不景気で日本へのデカセギがブームとなりました。渡航者は年に数万人にも達し、日系社会の空洞化、特に農村地帯はその影響を強く受けました。
 そのような状況の中でもコチア産業組合は1980年、ミナス州パラカツのセラード開発、南バイアのテイシェイラ・フレイタスのクラサー団地、リオ・サンフランシスコの灌漑団地などを造成し、パラナ州アサイには紡績工場建設と投資を拡大して行きました。
 この勢いに誰もがコチア産業組合をマンモス組合と称賛。スール・ブラジル組合は堅実経営の鑑であると2年も政府から表彰されました。この数年後に両組合が崩壊するなどとは誰も夢にも思わず、その繁栄を信じていました。

農業環境の大変化とコチア産組の崩壊

 さて、男のロマンを求めてバレイラス・リション・ダス・ネーベス団地に入植した者達は、ブラジル経済の悪化をよそ目にコチア組合の指導の元、大型機械での開墾を開始しました。
 通常、土が柔らかくなり、樹木の根が抜け易くなる雨季に倒木作業をするのですが、それを無視して乾季に整地を行ったため、余計に難儀しました。大型の農機具を揃え、石灰などを散布して土地の酸性度を中和し、倉庫や住宅などを整備しながら87年には植え付けに漕ぎ着けました。
 しかし、前述のとおり、86年から農業特別融資の恩典が無くなりました。不景気で購買力も落ちている時に主要産物のバタタが暴落、水銀事件も発生してダブルパンチ。カフェー国際相場の暴落も重なり、コチア組合そのものが窮地に立たされました。
 1990年、直接選挙で大統領に就任したフェルナンド・コーロルはコーロル・プランを実施。預金の大部分を封鎖し、コチア組合はいよいよ資金繰りに困り、財政悪化が一般に知れることとなりました。
 この年、コチアは井上会長から片山会長に代わり、役員を一新。日本からの支援交渉を始めています。そしてこの年、コチアは入植して5年目のリアション・ダス・ネーベス団地の閉鎖を決めました。この時、4人だけが残りました。4人の中に横田尚武がおりました。
 横田は4人のリーダー格として組合などと掛け合い、植え付けの継続に奔走しました。
 1991年、コチア産業組合は日本との融資交渉が実らず、93年にはブラジル政府からの公的救済資金も断られたことで、負債の全面的な不支払いモラトリアムに追い込まれました。
 1994年、健全財政を誇りとしていたスール・ブラジル組合が自主解散。コチアも同じく中央会を解散しました。

サントリー武川工場視察の際、左から2人目が横田さん、徳留さん、後ろに桜井さん(1995年頃)
サントリー武川工場視察の際、左から2人目が横田さん、徳留さん、後ろに桜井さん(1995年頃)

 横田はその時のコチア組合経営審議会の委員でした。組合の再起を掛けて、10単協を残して中央会を解散する自主解散を決定したと横田は話していました。
 誰もが予想出来なかったマンモスコチア瓦解。1998年に南米銀行も落城。コロニアが誇りとしていた全伯規模の企業及び組合は残念ながら、姿を消してしまいました。
 横田は1990年、3人の営農継続が整ったので、バレイラスを離れてサンミゲル・アルカンジョの農場に帰りました。
 しかし93年、家族の反対を押しのけバレイラスに戻ります。その理由は、一縷の望みを賭して日本政府の第3次プロデセール計画にバレイラスを組み入れてもらう運動をするためでした。しかし、コチア組合の崩壊によってその望みも消えてしまいました。
 コチアが撤退した後は、以前より進出していたアメリカの穀物メジャー、カルジール、セバル、ブンゲ等が、大規模な倉庫を建設し、生産物を買い漁り、植え付け前に前貸しする青田買いを始めました。銀行融資に代わってメジャーからの貸付が多くなって行き来ました。

コチア青年子弟の訪日研修にも尽力

横田さんが団長となり、80人のコチア青年2世研修団をつれて皇居を訪問し、皇太子殿下(当時、現上皇陛下)にも謁見していただいた
横田さんが団長となり、80人のコチア青年2世研修団をつれて皇居を訪問し、皇太子殿下(当時、現上皇陛下)にも謁見していただいた

 そのような状態が続いていた1996年、夢を失った日本の農家の若者と出稼ぎ子弟の若者とで横田は空とぶ農業計画を発案しました。
 空とぶ農業計画は日本とブラジルの農繁期が反対なことを利用して、ブラジルの日系農家と日本側農家がコラボレーションしてセラード開発をする計画です。日本の様々な団体が関心をもって受け入れ、講演依頼も多く、同志として受け入れて下さいました。横田はその活動のため、日本での滞在が多くなって行きました。
 各界を引退された方々の集まりである上野の西郷隆盛研究会などには、農林省、JICA、JBIC等の政府機関、農協中央会等の関係機関などを紹介して頂き、状況説明と嘆願の訪問をすることが出来ました。
 青年による空飛ぶ農業構想はコチア青年連絡協議会が子弟の訪日団を企画したことに横田が賛同し、引率者として参加していた体験から生まれて来たものでした。80、83、85、87年と4回、そして88年には派日女子農業研修生を引率して、度々皇居を訪問し、皇室とお会いしております。
 日本政府のモザンビーク農業開発計画の会議にも招かれました。日本の一般の方でも地球温暖化、環境問題、アマゾンを守ることについては関心が高く、環境関係の幾つかのNPO団体から提携を求められました。
 食料生産と植林による環境保全計画の実施候補地をアマゾンに求めて、マット・グロッソ州のアマゾン側サンジョゼー・ド・リオ・クラロ市の渡辺市長に候補地を紹介して頂きました。オーストラリアで実績のある特殊な桐の苗の植林計画が進み、苗を数万本用意できました。薬木のニン、ビオジーゼルのジャトロファ、高級家具材のマホガニー等を準備していざ植林まで漕ぎ着けましたが、日本側の不祥事で実現できませんでした。

横田の先見の明か、変貌するバレイラス

2011年ごろ、左から横田さん、南雲さん、谷さん、中央が中沢さん、右端が蛸井さん
2011年ごろ、左から横田さん、南雲さん、谷さん、中央が中沢さん、右端が蛸井さん

 2011年の東日本大震災の後、トカンチンス州知事が津波の被災家族を受け入れる計画を発表しました。州知事とお会いして計画書とメッセージを頂き、それを携えて横田が福島県の被災地に行き、市町村を訪問。意向を伝え、幾度も交渉を重ねました。
 農業移民として成功した横田は、1980年のパラカツ農牧会社の創立役員でした。バレイラスの土地に身を投じ、執着したのは何故だったのだろうか。それはそこの土壌構造が作物栽培に最も適しているからで、彼は心から惚れ込んでいました。そして将来発展することを確信しておりました。
 今それが証明されています。家庭的な幸せを捨て、バレイラスの窮状とその重要性をブラジルと日本で多くの関係者に訴えました。そして食料や環境問題で数多くの賛同者を得ました。残念ながらそれらの計画は実現出来ませんでしたが、彼の主張と予言はこのウクライナ戦争の今、沢山の方に影響を与えていると思います。
 横田の土地は団地以外に2千ヘクタールありました。侵入者を追い払って、ある時までは守ってきましたが、日本で活動するようになってからは現地の人に委任状を出したりして管理を任せるなどしていました。
 サンパウロ州でも難しい農場の管理。バレイラスでは隙があれば侵入されるのが常です。とうとう弁護士を入れても解決出来ない状態になってしまいました。法律に弱く、人を信用してしまう一世の弱点。多くの一世が苦汁を飲まされたように、横田も取り返しのつかない失策をしてしまいました。誠に惜しいことです。
 1990年頃のバレイラスは、燃料ポスト・ミモーゾを中心にして家が数えられるほどあっただけでした。この頃から宅地分譲は始まっていました。30年後の今、ルイス・エドアルド・マガリャンエス市となり、巨大なサイロが並び、加工工場なども出来、人口なんと10万人の都市となりました。ノルデステの内陸で最も発展したところと言われています。
 バレイラスに残したコチア産業組合の単協は日系農家が中心となって「Cooperativa Agropecuária do Oeste da Bahia」(COOPROOESTE)と大きく成長して、市を代表する企業となっております。
 コチア産業組合の団地に残った3人は、篤志家天野鉄人氏の支援によって営農を続けていましたが、現在は菅原さんだけが順調に業績を伸ばして、植え付け面積3千ヘクタールの農場を堅調に営んでおります。
 東京でこんなことがありました。山手線の電車内で車両の斜め前の高齢者用の席にガラの悪い大柄な若者が足を投げ出して座っていました。そこへ横田が近づいてじっと見つめ、若者に席を空けるよう促しました。横田の眼力の強さは私も知っていました。若者は何も抵抗せずに立ち去りました。そうした反面、横田は普段、柔和な目をしていて、彼の目を見た赤ん坊や子供はすぐに馴染んで仲良しになりました。彼は特別な眼力を持ち合わせていました。
 横田尚武の生涯の関係した事柄を綴りました。いろいろとありましたが、お疲れ様、有り難うございました。自由な身になって、今は天上から安らかに見守っていることでしょう。


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