ペルー元大統領フジモリ氏死去=治安回復の英雄か独裁者か

南米ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領が11日、娘ケイコ氏と共に住んでいたリマ自宅で死去した。行年86歳。同氏は1990〜2000年まで大統領職を務め、経済改革やテロリズムとの戦いで強い指導力を発揮した一方で、政権は腐敗や人権侵害の問題で批判を受けていた。支持者にとっては国を経済破綻とテロから救った英雄だが、反対派にとっては権力を維持するために民主的制度を踏みにじった独裁者とみなされている。
親族によると同氏は舌癌、心房細動、肺疾患、高血圧などの健康問題を抱えており、8月に口腔内放射線治療を終えた後、健康状態が急速に悪化したと12日付ドイチェ・ヴェレなど(1)(2)が報じた。
フジモリ氏は日本から移民した両親のもと、1938年にリマで生まれた。60年に農業工学の学位を取得し、その後ペルー農業大学で教鞭をとった後、政治の世界に入った。
1990年、フジモリ氏は大統領選挙に出馬し、当時の有力候補マリオ・バルガス・リョサ氏を破って勝利を収めた。前任者アラン・ガルシア元大統領から引き継いだ同国は、経済的にも社会的にも破綻しており、年率7千%のインフレに苦しみ、彼は「自由市場経済の導入」と「政府の役割の縮小」を掲げ、急速な経済改革を推進し、同国はインフレ抑制と経済成長を達成し、一時的な繁栄を享受した。
フジモリ氏の厳格な反インフレ政策は労働組合セクターや議会の不満を引き起こした。立法府からの支援を撤回された後、1992年、彼は軍の支援を受けて「自主クーデター」として知られる政治介入を行い、議会を解散し、司法を掌握することで実質的な権力を集中させた。この行動は、国内外で強い反発を招き、彼の政権が権力を私物化し、民主主義の原則を侵害しているとの批判を受けた。軍との同盟が強化され、ペルー社会の複数のセクターからの不満が高まった。
フジモリ政権下では治安回復のために「対テロ作戦」が積極的に展開されたが、時に過激な手法を伴い、多くの無実の市民が犠牲となった。特に極左ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」との戦いでは、軍や警察による人権侵害が発生。後にペルー社会に深刻な影響を及ぼし、戦闘地域に住む多くの人々にとっては過酷な現実となった。
ペルー憲法は2期連続の大統領職を禁じていたが、フジモリ氏は2000年の選挙で再び出馬を表明。再選から1カ月半後、国家情報局長であり、影で実権を握っていたウラディミロ・モンテシノス氏が贈賄や汚職に関与していたことが明らかに。彼が野党議員に現金を渡す映像が公開され、他のビデオでは、複数の政治家や企業家が金銭を受け取る姿が見られた。
この大スキャンダルにより、フジモリ氏は新たな選挙を召集せざるを得なくなり、ブルネイを訪問し、その後日本に渡った。2000年11月にファックスで辞任を送信したが、ペルー国会はこれを受け入れず、「永久的な道徳的無能力」としてフジモリ氏を罷免した。
フジモリ氏は日本政府により日本国籍が認められたため、日本に留まる権利と引き渡しを免れる権利を得た。彼は2005年に再びペルー大統領選に立候補する意向を示したが憲法裁判所によって立候補が拒否された。
2005年末、フジモリ氏はチリの首都サンティアゴに突如として現れ、チリ警察によってペルー政府の要請で逮捕された。2年後にリマに引き渡され、2009年4月、1992年に起こった軍特殊部隊による民間人殺害事件に関与したとして25年の刑を言い渡された。
フジモリ氏は他にも公金横領や腐敗の罪で有罪判決を受けたが、特に強制的な避妊手術を含む人権侵害は彼の政権下での最も深刻な問題として注目されている。フジモリ氏の政権下で、多くの貧困層や先住民が住む地域の女性たちが強制的に避妊手術を受けさせられた。
だがフジモリ氏にはペルー国内に一定の支持者が存在しており、一部の国民は彼の強い指導力や経済の安定化を評価している。ペルー政府はフジモリ氏の死後、3日間の国民喪に服すことを決定している。通夜は現地時間12日午前11時にリマの国民博物館で執り行われた。