《記者コラム》金剛寺とカザロン・デ・シャー=知られざる日本移民史の宝=藤川が富士見観音に込めた想い
「藤川辰雄さんの物語に深い感銘受けた」
「この旅行では、特に藤川辰雄さんの物語に深い感銘を受けました。こんな歴史があるとは全く知らず、日本の歴史を愛する2世として誇りに思いました」ー坂木通子さん(85歳)は帰り道のバスの中で、しみじみとした表情で述べた。
ブラジル日本清和友好協会(旧清和友の会、中沢宏一会長)の一行20人余りは、第8回ブラジル日系社会遺産遺跡巡りとして10月26日、スザノ金剛寺とモジ市のカザロン・ド・シャー(お茶屋敷)を訪問する日帰りツアーを行った。
朝一で、高野山真言宗南米開教区スザノ金剛寺を訪問。ここには日本海外移住家族連合会(海家連)の初代事務局長、故藤川辰雄さんが建立した富士見観音がある。彼は事務局長として16年間(1962年から1978年まで)に渡って、移民を送り出した日本側と現地との親睦に努めてきた。
1953年に戦後移住が再開され、送出した日本の肉親によって各県に海外移住家族会が結成され、さらにその全国組織『日本海外移住家族会連合会』(田中龍夫会長)が1962年に創設された。この会の目的は「移住者激励援助」にあり、当時ブラジル側に家族会との連絡活動に対応する団体がなく、66年4月、家族会との連絡を行なう現地団体としてブラジル日本都道府県人会連合会(県連)創設された。だから県連は来年60周年を迎える。
1965年と1970年に南米各地の移住地を視察した藤川さんは、グァタパラ移住地や平野植民地などサンパウロ州奥地で、多くが無縁仏となっていることを知り、自分たちが送り出してきた移民のいく末に愕然とした。
鬱蒼とした森林に囲まれた戦前の開拓地には、車もない、電気もない、医者もいない、総領事館も近くにない。そんなところはざらだった。だからマラリアなどの風土病や怪我でバタバタと斃れた人も多い。そのため、1939年に日本病院(現サンタクルス日本病院)が落成された。
岐阜県人会の元会長、山田彦次さんから以前こんな話を聞いた。「奥地の原生林の開拓に家族で入った女性はお産を始め、生活の様々な点で特に大変だった。子どもが死んでしまう。ちゃんとしたお墓もない、戸籍もない。しかたなく植民地に埋めて別の場所へ移動する。何年かたってもどってみると、埋めた場所になんの痕跡も残ってない。再生林や町になっている。移民の百年の歴史は、そういう無縁仏の積み重ねなんですね」と語った。
税関倉庫から観音像を秘策で引き出す
藤川さんは読経して死者の冥福を祈りながら調査した結果、2回の調査旅行だけで351柱の無縁仏を見出し、奥地にはまだまだ無数の先駆者の魂が弔う人もなく眠っていることが分かった。
1974年に3度目の無縁仏の実態調査と供養を全伯各地で行った藤川さんは、その足で県連に開拓先没者慰霊碑建設を提唱、1975年に実際に建立された。奇しくも今年は、それから50周年の節目の年だった。
日本側家族の心情を思って「もっと供養せねば」との心境に至った藤川さんは、1978年に57歳で海家連を辞職して出家し、僧名・藤川真弘を名乗るようになった。
帰国を心待ちにしたまま異国で亡くなった海外移住者が、幾度も夢に見たであろう富士山――。藤川さんは1978年、それが見える伊豆大島に「海外開拓移住者菩提・富士見観音堂」を自費建立した。
だが《その富士見観音堂で海外開拓移住者の菩提を一心に祈りながら、なお海外から無縁仏の悲しい声が聞こえて、私の修行の足りない思いに苦しみ悩みました。ブラジルに富士見観音の分身(霊)を移すことを思いつき、古希を記念に人生最後の奉仕として私財を投じ》との経緯が、金剛寺の富士見観音の碑文に書かれている。
だが1986年7月25日の開眼供養の2日前になっても、観音像はスザノ税関倉庫で止められてしまい出てこない。そこで藤川さんと初代住職の小田明照さんは、税関職員と懇意な地元の輸出入業者と相談し、「秘策」を練り、開眼供養にぎりぎり間に合わせた。
「無縁仏が呼んでいる声が聞こえる」
スザノ金剛寺で富士見観音の開眼供養が行われた2カ月後、9月20日に藤川さんはアマゾン川で無縁仏の巡礼供養中に謎の死を遂げた――。藤川さんは無縁仏の供養を進める中で、《墓標をも再生林に消え去りて鬼哭啾啾ビラアマゾニア》と詠むに至る心境になっていた。
鬼哭啾啾とは「浮かばれない亡霊が恨めしさに泣くこと」と広辞苑にある。アマゾン高拓生の墓地を探しに行き、密林の中から見つけられなかった無念の心境を詠んだ一首だ。浮かばれない移民の亡霊が、恨めしさに泣く声が聞こえるようになったのだ。
この謎の死の真相に迫るビデオドキュメンタリー、約5時間の大作『アマゾンの読経』(2005年)がサンパウロ市在住の記録映像作家、岡村淳さんによって発表されている。この作品はないが、岡村さんのユーチューブ(www.youtube.com/@junchanbr/videos)は必見だ。
同岡村作品では、アマゾン川中流のビラアマゾニアの日本人墓地を望む対岸で、藤川さんが消息を絶った経緯を巡る、興味深い様々な証言が集められている。川岸で供養中に暑さから水浴して溺死し、ピラニアの餌食となって遺体が上がらないというのが地元警察の〝公式見解〟だ。
ところが岡村さんが集めた証言には、「今思えば最初から計画的な行動だったようにも思える」との地元の推測などもあり、衝撃的な内容を含む。藤川さんが最後に残した絶筆メモには「無縁仏が呼んでいる声が聞こえる」「事故死の霊感を受けるに至る」とあり、鬼哭に呼ばれるように覚悟の上でアマゾン川に入水し、自ら無縁仏の側へ渡ってしまったことが伺われる。
スザノ金剛寺にある富士見観音像の足元の黒石には「南米日系人の皆さん。どうぞ、ここにきて手を合わせて下さい・・・。死してなお菩薩の道をひとすじに迷える人の杖とならまし」と記されている。今回そこで慰霊法要が行われた。
金剛寺建立は1955年で、一行が訪問した前の週に「建立70周年記念法要」が挙行された。初代住職の戦前移民の小田明照さんが91年に亡くなり、谷口圓照さんが後を継ぎ、6年前に現在の小田念照さん(78歳、2世、初代住職の子息)が継いだ。
念照住職は「大事な観音様なので、お参りしてくださる方は多いです。毎月の先祖供養、加持祈祷にはブラジル人もかなりいます。中でも護摩焚きには毎月2千名からの注文を受けます。日本のお寺だと普通20、30人だそうです。注文内容に応じたお札を買ってもらい、それに名前を書いてもらい、お経を上げながら焚き上げます」とのこと。
中沢会長は慰霊法要の際、「アマゾン川に入水された藤川さんの想いを忘れてはいけない。この観音様をお参りすることで、日系社会として歴史を風化させないことが重要では」と呼びかけた。
「カザロンは西本願寺飛雲閣に似ている」
続いて、モジ市コクエイラ地区にある旧製茶工場カザロン・ド・シャーに向かった。1942年に日本人大工・花岡一男氏の施工で建設された。丸太の曲線を活かした特異なデザインに仕上げられた建築物だ。
現地ガイドの藤井カオリさんの説明によれば、1982年にサンパウロ州文化財指定、1986年に連邦文化財指定を受け、86年に個人からモジ市所有に移管。でも10年間ほど放置状態に置かれ、劣化が進んだ。
その惨状を見て、現地の陶芸家・中谷哲昇さん(あきのり、故人)が立ち上がり、1996年にカザロン・ド・シャー協会を設立して孤軍奮闘・復元運動を始め、日本移民百周年の2008年まで12年がかりで復興を実現させた。その経緯はニッケイ新聞《カザロン・ド・シャ保存運動―中谷哲昇寄稿》(www.nikkeyshimbun.jp/rensai/2005-esp/2005rensai-48)に詳しい。
屋内には動力エンジン1台を稼働させて、それをロープと軸で5台の揉捻機(じゅうねんき)に伝達するシステムの残骸がある。揉捻機は、茶生産が盛んだったレジストロの機械を参考にして、モジで富士田技師が自作したものだという。各機械の正面には「富士山の山マークの下に田式」と書かれたロゴがはめられていると、カオリさんは説明した。
そのカザロン・ド・シャー協会は2023年に中谷さんが亡くなった後、娘の日草さん(ひぐさ、43歳、2世)が代表となって引き継ぎ、カザロンを陶芸を中心とした文化センターとして活用している。日草さんは「この建物が持つ独特の手作り感が、陶芸家としての父の感性にマッチしたと思う。父は復元が完了したら、ここを文化センターにしたいと願っていた。長女の美波(みは)さんが陶芸教室をここで開いており、その卒業生と一緒に陶芸作品の販売をここでしている」と近況を説明した。
ツアー参加者の一人、清水スミエさん(81歳、2世)は「釘を使わず、ハリを組み合わせる手法が素晴らしい。ジャパンハウスのファサードと同じで日本を思わせる。とても気に入った」と微笑んだ。
日本で一級建築士の資格を持つ中野正尊さん(まさたか、65歳、東京都)に建物の感想を尋ねると、「思いの外、西洋風の建築様式の影響が強い。特に内部の、ハリを上から引っ張るトラス構造が洋風。地震が少ない国の建築様式だ。釘を使っていないというと日本風に聞こえるが、むしろ西洋風ティンバーフレームでは。ただし、正面外観は国宝・西本願寺飛雲閣によく似ている。大工の花岡さんはかなり意識して寄せたのではないかと感じた」と専門家らしい見立てを披露した。
飛雲閣は京都の西本願寺にある、左右非対称で巧みな調和を持つ名建築で、屋根が「唐破風」。安土桃山時代に建てられたと言われ、ややなで肩でとても優美な形をしている。確かにカザロンの正面玄関が唐破風で、建物が左右非対称な点も似ている。
一行はその後、モジ市のシッチオ・バガルメスで筍尽くしの昼食を堪能し、ゆっくりと筍狩りを楽しんだ。
観音像の由来にしても、カザロンの建築様式にしても、いずれも一見の価値あり。機会があれば、ぜひガイド付きで移民史の深みを堪能して欲しい。(深)








