異国で子育てをする母親の想い=駐在員家庭の子育て支援グループ《記者コラム》
異国の地で子どもを育てる不安
異国の地で子どもを育てることは、勇気と忍耐、そしてつながりを必要とする。
駐在員本人には企業からの手厚いサポートがあったとしても、家族へのそれは企業によってだいぶ限定的になるのが現実ではないか。そのしわ寄せが、本人の意思とは関係なくブラジルに連れてこられた若き母親の双肩にのしかかっている。編集部を訪れた母親たちの話を聞きながら、そんな印象を受けた。
ポルトガル語が飛び交うサンパウロ市の街で、ベビーカーを押す日本人の母親たちは、今日も人波の中を歩いている。言葉も文化も違う環境での子育て。心のどこかに常に不安を抱えながらも、子どもの笑顔に励まされる日々だ。
そんな母親たちの間に、いま静かに広がっている輪がある。「bebê会(ベベ会)」と名づけられた駐在員家庭の母子の子育て支援グループだ。
発足は2023年。中心となるのは、助産師・看護師・保健師の日本国家資格を持ち、さらに「国際認定ラクテーションコンサルタント」有資格者として母乳育児の専門知識を持つ山口庸子さん。
日本での病院勤務、出産ケアや行政の健診、訪問支援の活動を行っていた経験から、海外に駐在(帯同)した母子への支援が少ないことに驚き、「出産、子育ては、尊く本来楽しいものよ。異国で孤立する母親たちを支えたい」という思いを抱いたことが出発点だった。
「日本では行政が健診や予防接種の案内をしてくれますが、こちらではすべて自分で調べ、予約を取り、手配しなければなりません。言葉の壁もあり、初めての子育てでは本当に心細いんです」とbebê会に参加していた大橋さんは話す。
「bebê会」、「ベビママヨガ」、「育-hug」
サンパウロ市ベラ・ビスタ区の文化施設「Sesc Avenida Paulista」には毎月第一金曜日の朝、3階の子どもフロアには、15人ほどの母親と赤ちゃんが集まる。この「bebê会」では参加費も予約もいらない。ベビーカーを並べ、マットの上に子どもを寝かせ、母親たちはおしゃべりを始める。泣く子をあやしながら、笑い合う声が響く。
会の目的は、母親同士の助け合いと情報共有。参加者の中には妊婦もいれば、帰国を控える母親もいる。毎回のように新しい顔が加わり、自然に子どもたちも友達になっていく。
運営を支えるのは、助産師の西尾佳代子さん、田中優理花さん。そして、ヨガインストラクターで出産ドゥーラ(出産ケア専門家)の鈴木友紀菜さんも協力し、親子で心身をほぐす「ベビママヨガ」を開いている。母親たちの輪は、ゆるやかに、しかし確実に広がっている。
ヨガクラスは「赤ちゃんの機嫌に合わせながら」進められるのが最大の特徴。「赤ちゃんがいるから」と参加をためらっていたママでも、安心して自分の体と向き合える環境が整っている。第1第3月曜10時から1時間ほど開催している。
もうひとつの活動が、大橋友紀(ゆうき)さんが主宰するキッズサークル「育-hug(はぐ)」。対象は1~3歳の未就園児で、絵本の読み聞かせや日本の季節行事に合わせた工作、ふれあい遊びなど、親子で楽しめる知育プログラムを行う。月2回、パライゾ区で会場を借りて開かれ、参加費は10レアル。手作りの温かみのある活動に、定員の10組が毎回満員になるという。
未就園児の保育料は補助の対象外となる企業が多く、日本の児童館のような公共サービスもほとんど存在しない。治安が悪く、公園へのアクセスも困難な中、子どもが安心して遊べ、保護者同士が横のつながりを築ける場として定着している。
こうした民間レベルの支援が生まれる背景には、サンパウロ在住の日本人家庭が抱える構造的な課題がある。
援協でも子ども向け日本語総合健康診断を
日本では、1歳6カ月健診や3歳児健診が自治体主導で行われ、発達や栄養、視力・聴力、歯科などを総合的に確認する。しかし、ブラジルにはこうした健診制度が存在せず、日本人家庭の多くが個別に小児科・眼科・歯科を探し、実費で部分的に受診しているのが現状だ。
この結果、
・医療機関間で情報が分断され、総合的な発達評価が難しい
・保護者が適切な相談機会を得にくい
・支援が必要な子どもの発達支援が遅れる可能性がある
といった課題が生じている。
山口さんたちは、こうした現状を少しでも改善しようと、地域の母親の声を集め、サンパウロ日伯援護協会(援協)に最近、要望書を提出した。
要望の内容は、日本の1歳半・3歳児健診に相当する総合健診プログラムの導入・実施だ。もし実現すれば、
・小児科・歯科・眼科の連携による同日実施
・日本語による問診と発達確認
・必要に応じた専門機関への紹介体制
といった形で、在住日本人家庭に大きな安心をもたらすだろう。
「現地の医療機関を探すのは大変です。ポルトガル語での診察は不安も多く、子どもの発達をどこまで把握できているのか分からないという声が多い。援協が中心となって健診の仕組みを整えてくれたら、どれほどの家庭が救われるでしょう」と山口さんは語る。
彼女の言葉には、母親として、専門家としての切実な思いがにじむ。日系5団体のひとつ、ブラジル日本商工会議所からも援協に対して後押しがあれば、実現により一歩近づくのではないか。
総領事館や会議所、援協との連携が重要
世界を見るとロンドンの「英国なかよし会」(en.nakayoshikai.co.uk/)のように、英国在住の日本人向け親子・子育て支援の民間団体もある。すでに35年以上の活動実績を持ち、妊娠期から小学校就学までの子育て支援・母親向け情報交換・日本語環境の提供・ナニー(育児のプロ)紹介などを行っている。
だが、決して多くないブラジルの駐在員数では、そのような団体は難しい。その分、援護協会のような現地日系機関がサポートできれば、駐在員家庭も心強いのではないか。海外では言語・制度・文化の壁が大きく、母語日本語で相談できる環境が貴重だ。母親・保護者が「見守ってもらえている」「仲間がいる」と感じられる場が、親のストレス軽減・子育て継続にとって非常に重要だ。
日本国内では、児童手当・保育・幼児教育・健診・発達支援・地域子育て支援センターなどが整備されている。東京都では外国人住民(中・長期在留)も対象に保育・幼児教育補助・子ども医療費助成等が案内されているという情報もある。
ただし「海外に滞在している日本人家庭(駐在・赴任・永住)に対して、日本政府がその滞在国で子育て・健診・発達チェックを包括的・体系的に支援する制度」が全国的・標準的に整備されているとは確認できない。事実、今回編集部を訪れた駐在員夫人の皆さんも、総領事館からの具体的な手助けは受けていないという。
日本政府や関係機関は、海外で暮らす日本人・日本語話者の教育・学校環境(日本語センター、日本人学校)に支援をしているが、主には「日本人学校」が支援対象だ。
日本政府は、途上国向けの母子保健支援・国際協力(ODA)を実施しているが、これは、あくまで外国向けの国際保健・開発支援で、足元である海外駐在日本人家庭の子育て支援ではない。
駐在員家庭の場合、企業の制度設計(住居・保険・保育・帰国支援)や在外公館、地元日本人会、日系団体との連携が鍵だ。医療制度の部分は、地元医療機関である援協などが、子育て初期に発達・視力・聴力・歯科といった領域をまとめて確認できる機会を日本語で提供できれば、母親が医療機関をバラバラに探す手間やコスト・情報の断片化を防げる。
駐在員家庭にとって「日本での帰国時健診とのギャップを埋める」役割を担えると理想的だ。総領事館および各関係省庁も、駐在員が海外から帰国後に、子供が「日本の児童手当・保育・幼児教育補助・健診制度」に再接続できるよう、日本国内の住民登録・在留履歴・子どもの在留資格・帰国タイミングなどをサポートできる体制が重要だろう。
援協との打ち合わせの中で、海外滞在中の子どもの健診・発達チェック・歯科・視力・聴力などを「帰国後に日本の健診にギャップなくつなげられるように」記録を残す(英語・日本語両方で記録)、かつ、帰国後にはスムーズに地元の自治体健診にそれを持参して通用するシステムがあれば安心だ。
異国だからみなで子どもを見守る体制を
駐在員家庭と永住家庭の生活環境は異なる。それでもbebê会では、そうした区別を設けず、誰でも受け入れている。「国籍も立場も関係なく、ここでは〝母親〟としてつながることができます」。山口さんの言葉には確かな信念がある。
参加者の一人は言う。「初めて会ったのに、気づいたら涙が出ていました。『大丈夫だよ』と言ってもらえただけで、心が軽くなったんです」。他の母親も、「ここに来ると『自分だけじゃない』と思える」と笑う。
その笑顔の裏にあるのは、異国での孤独と葛藤、そして支え合うことで得られる小さな安堵だ。SNSやネットでは得られない「直接の共感」。子どもが泣けば隣の母親が抱っこを代わる。困った時には自然に声がかかる。そんな光景が、この街のどこかで確かに生まれている。
山口さんは言う。「子育ては一人ではできません。海外では、地域の小さなつながりが命綱になることもあります。母親同士が支え合うことで、子どもも親も、安心して笑顔でいられる環境を、ブラジル在住者や駐在(帯同)者を分け隔てなく、継続して作っていけたらと思っています」。
ポルトガル語で「bebê」は「赤ちゃん」。その言葉の響きのように、柔らかく、あたたかく、生命の中心に人が集う場所が、サンパウロ市に生まれた。
援協への要望は、単なる「健診制度の整備」ではない。それは、海外で暮らす駐在員家庭の「心の支え」を築く第一歩でもある。「いずれ日本の将来を支える子ども」たちが、ブラジルで素晴らしい成長期を過ごすことで良い印象を持ってもらえば、20年後、30年後にそれが何らかの形で帰ってくるかもしれない。
異国に暮らす母親たちが、自分と子どもの成長を安心して見守れる社会。その実現を願って、彼女たちは今日も集い、語り合っている。「助け合いながら、育てていきましょう」――。
山口さんたちが掲げるその言葉が、サンパウロの母親たちの胸に、やさしく灯り続けている。(深)
問い合わせ先
bebê会=WhatsApp 11・91230・3300/Instagram yoko_namisai
べビママヨガ=Instagram YUKI7_YOGA
キッズサークル「育-hug」=Instagram HUG.KIDS.BR








