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《記者コラム》日本にない規模の日本人学校=強い絆で結ばれた卒業生たち

2024年10月15日

サンパウロ日本人学校の職員室がある管理棟の前で記念撮影
サンパウロ日本人学校の職員室がある管理棟の前で記念撮影

日本人学校の敷地は東京ドーム2・6個分

 「日本国内の小中学校では、こんなに広い敷地を持つところは珍しいと思います。大学レベルというか」――清和友の会のツアー(中沢宏一会長)で3日、約30人が聖市カンポリンポ区にあるサンパウロ日本人学校を訪れた際、植草貴久男(63歳、千葉県出身)校長はそう説明した。
 小高い丘の斜面のような敷地の面積はなんと約12万2千平米もある。東京ドーム2・6個分の土地に、1千人の生徒収容能力を前提として建設された校舎群の延べ床面積は6514平米だ。図書館、理科室、技術室、音楽室、ポ語教室、職員室、保健室など日本同様の設備を完備。奥には未使用の〝森〟のような場所まである。

図書館脇の巨大なパイネイラの樹
図書館脇の巨大なパイネイラの樹

 今年は現在の場所に移転して50周年の節目の年だ。植草校長は、「ここは最初何も生えておらず、その後、徐々に植樹されました。図書館横にあるパイネイラも立派に育ち、ちょうど入学式の頃に満開になり、『まるで桜のよう』と生徒たちの思い出に残っているようです」と指をさす。
 同校長は「1980年代初頭、生徒数は最大900人台になったことがありますが現在は141人です」という。パンデミック中の2020年一時休校にし、数カ月後から90人台の生徒でオンライン授業を再開し、現在の数まで回復したという。
 週32時間で、うちブラジル学として1時間をポルトガル語や当地文化や歴史教育にあてている。1学級の平均生徒数で最も人数が多いのは、小学校2・3・4年生で20~25人程度。5・6年生は約15人、中学生は4~10人だという。教師15人は日本から3年間ほどの任期で派遣されている。
 周りには貧民街地区もある聖市郊外に位置することから、治安上の問題を抱えている。「1990年には番犬としてドーベルマンを3匹飼いましたが、それまで盗まれました。1991年に年間12回も暴漢に入られたことがあり、その後、警備強化が行われ、校舎には全て鉄格子を入れました」とのこと。
 そのような流れから2019年には、ここを売却する決議が行われ、将来的に移転することが見込まれている。

小学部卒業生が担任と、大学卒業前旅行でタイムカプセルを開けに来伯

 植草校長は「ただし、卒業生にとって、ここはとても思い出深い場所らしく、大学生とかのOBが『懐かしい校舎を見せてほしい』とけっこう頻繁にやってこられます。中には、還暦を迎えた卒業生のグループも来る」という。

百周年記念パネルの前で記念撮影した川端さん
百周年記念パネルの前で記念撮影した川端さん

 実際、清和友の会のツアー参加者の中にも、日本人学校元教師の川端成明さん(しげあき、53歳、群馬県出身)の姿もあった。2006~08年に日本から派遣されてここで教師をした。その際、ちょうどブラジル日本移民百周年に居合わせ、その祝賀企画として小学部の生徒に呼びかけて大きなパネルを共同製作したという。川端さんは「その絵が今も展示されているのを、今回確認できて感動しました」と笑顔を浮かべた。
 さらに、こんなエピソードも教えてくれた。川端さんが2008年に担当した約14人の小学6年生のクラスは卒業時、自分たちの授業を行う校舎の裏庭にタイムカプセルを埋めた。
 「彼らとは日本でも連絡を保ち続け、2018年、彼らが大学を卒業する直前に『タイムカプセルを開けに行こう』という話になり、6~7人なので昔のクラスの半分近くが一緒にブラジルを再び訪れました。実際に開けてみて、懐かしさのあまり、泣いている子もいました」と思い出す。
 川端さんは日本で学校教員を辞め、先に来ていた妻子と共にこの4月からブラジル在住になった。「『学校を辞めてブラジルへ行く』とかつての生徒に行ったら、みんなからは『お疲れ様』ではなく、『いってらっしゃい』と言われました」と笑い、「私や卒業生にとっては、この校舎は思い出深いので、できれば使い続けてほしいです」と述べた。

移住者の声「ポルト・セグーロのような日本人学校があればいいのに」

 サンパウロ日本人学校では日本の文部科学省のカリキュラムに沿って教えている。日本の卒業資格が取れる反面、ブラジルの高校や大学には進学できないので、主に駐在員子弟が通っている。そのため、いわば日本進出企業の多さを図るバロメーター的な存在でもあり、現在の生徒数は、それだけ日伯間の企業投資や人材交流が低迷していることを如実に感じさせる数字でもある。

元気に手を上げる生徒、授業の様子
元気に手を上げる生徒、授業の様子

 ツアー参加者の一人、戦後移民の岡崎祐三さん(81歳、大阪府出身)に日本人学校の感想を聞くと、「日本人学校の規模が別格だね。ただし、事実上、駐在員の子弟しかいかないというのは残念。うちの息子は、ドイツ系コレジオのポルト・セグーロに通わせたけど、あそこにはブラジル人の生徒が通う普通学級とは別に、ドイツに進学する生徒向けの本国カリュキュラム特別コースがあって共存していた。駐在員の子供と現地の子供が同じ学校に通っているんだよね。韓国系もボンレチーロの本国とブラジルの両方の卒業資格が得られる学校を作ったと聞く。日本もそういうのが作れたらいいけどね」と残念そうに述べた。
 博物館と銘打たれた一室には、三葉虫とアンモナイトの化石、ワニやアナコンダ、古代魚ピラルクーなどのはく製のすぐ横に、サンバ・カーニバルの衣装が展示されていたのにすこし驚いた。かれこれ10年弱、聖市カーニバルに出場していた経験があるコラム子からすると、毎年参加している人なら捨てているであろう身近な衣装が、「珍しい展示品」として置かれていることにブラジルとの距離を感じた。

まるで日本の学校のような休み時間の風景
まるで日本の学校のような休み時間の風景

 日系社会や在外邦人コミュニティも独自だが、かなりブラジル化した部分も多い。でも日本人学校には「今の日本」がそのまま詰め込まれ、ブラジルの中に独特の世界を作っている。
 「外界」たるブラジルとの距離感というか、「身近な外国」が塀のすぐ外にある環境で日本式教育を行うことは、逆に校内では生徒や先生との絆意識を強める緊張感として働き、卒業生の仲間意識を強める隠し味の様になっている気がする。
 塀の外はブラジルで、中は日本というコントラストは強烈だ。ここには「もう一つの日本」というべき世界を感じた。(深)


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