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《記者コラム》日系農家のブラジル社会への大貢献=サンパウロ州農産物価格の30%を占めた戦後=中野順夫論文から食の歴史振り返る

2025年2月18日

日本移民によるブラジルへの最大の貢献は何か

 日伯外交関係130周年に当たり、「日本移民によるブラジル社会への最大の貢献」は何だったかと考えてみると、やはり「農業」だろう。
 豊富な水と土地、気候が揃っており、スーパーや露天市にはあらゆる種類の野菜や果物が所狭しと並んでいる。これら野菜や果物の中でも日本種の大根やキューリ、ナス、柿やリンゴ、長芋などをブラジルに導入したのは日本移民と言われ、既存種の品種改良では数えきれないと言われる。5大組合を組織して生産と流通の両面で戦後を中心に大活躍した。

1957年当時のサンパウロ州農産物生産に占める日系農家の割合
1957年当時のサンパウロ州農産物生産に占める日系農家の割合

 東大農学部卒の農学博士で、ブラジル日本文化福祉協会の初代会長でもある山本喜誉司氏は著書『移り来て五十年』(ラテンアメリカ協会、1957年)の中で、当時の日系農家による年農産物生産価格は《邦貨にして二千億円とみて差し支えない。この額はサンパウロ州農産物全価格の三〇%に及ぶものである》(29頁)と算出した。
 同書には、作物別にサンパウロ州日系農家の生産量の割合も書かれ、《コーヒーの一割五分、棉花の四割、米の二割、玉葱の一割といったところだが、特殊作物になると、馬鈴薯の六割、繭の九割、トマトの九割、野菜の七割、バナナの五割、鶏卵、薄荷、ラミーの九割、茶、苺、桃、柿の十割を生産している》(29~30頁)としている。
 日系農業史といえばブラジル農業研究者の中野順夫さん(よりお、1943―2016年、北海道出身)だ。個人的には90年代、アクリマソンの旧岐阜県人会館のサロンで酒を飲んで、真っ赤な顔をしながら舌鋒鋭くコロニア論や天下国家を熱く語っていた姿が忘れられない。今回彼の論文を読み直してみて、研究者として優れていたと改めて確信した。
 小樽市に生まれ、早稲田大学卒業後、1970年にあるぜんちな丸で渡航。サンパウロ新聞社で長いこと農業欄編集者として活躍した。最後は2015年からサンパウロ人文科学研究所の嘱託研究員をしていた。16年9月に某県人会で飲んだ帰り道、タグア街で転んで頭蓋骨損傷のため惜しくも亡くなった。享年73歳。資料の多くは国会図書館の日系移民関係資料(憲政資料室)に「中野順夫旧蔵資料」(https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/emigration/nakano)として収められている。
 人文研時代に同サイトに発表された論文《ブラジルにおける日系農業史研究「サンパウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」》(https://www.cenb.org.br/articles/display/397)を改めて読み、「ブラジルの食に対する日本移民の貢献」の部分を中心に以下、要約抜粋する。深い考察が散りばめられており、同サイトでぜひ全文を読んでほしい。

戦前のジャガイモ栽培農家の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)
戦前のジャガイモ栽培農家の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)

ドイツ人はジャガイモ、イタリア人はトマト

 ブラジル植民地を建設したポルトガル人は、ほかの欧州諸国と同じく、パン食民族だ。だが、植民地の大部分が熱帯圏に属するため、コムギを栽培できなかった。だから、先住民の食習慣にならい、キャッサバ粉とインゲン(フェイジョン)を主食とした。ポルトガル人が採択したこの食習慣は、開拓農家であれ貴族階級であれ共通している。植民地時代にかぎらず、帝政時代、そして共和体制になってからもつづいた。
 事情が少し変わるのは19世紀末、ヨーロッパ人がふえてからだ。サンタカタリーナおよびリオ・グランデ・ド・スル州で植民地を建設したヨーロッパ人は、コムギを栽培し域内自給をおこなう。サンパウロ州内に農場を開設したイタリア人も、1910年代からコムギを植えはじめた。ドイツ人はジャガイモを、イタリア人はトマトを導入し、短期間でブラジルに普及させた。イタリア人につづき、在来のポルトガル人農家農家が作付け面積を拡張。ドイツ人、スペイン人も野菜を栽培したが、戸数は少ない。
 1870年代から1880年代にかけて、イタリア人貧民が大挙して移住したことにより、サンパウロ市の様相が変わった。サンパウロ州奥地のコーヒー農場からにげだしたイタリア人の多くは、サンパウロ市へと流れ、ブラス区からモオカ区にかけては、イタリア人経営の町工場と労働者居住区になった。
 ポルトガル人、イタリア人、ドイツ人の野菜畑は、ベレン、モオカ、カンブシー、ヴィラ・マリアナ、ピニェイロス、ラッパに散在した。セントロはパリと比較されるほどに近代化が進んだ反面、労働者階級の居住区は貧民窟だった。これらの工場労働者が野菜消費の主力となった。
 労働力がふえたことで、町工場はますます増大。順次、機械を導入し生産規模を拡大した結果、1930年代のサンパウロ市は、国内最大の工業都市となっていた。商業都市から工業都市へと経済発展する過程で人口増、消費増がつきまとう。野菜類の消費需要は、イタリア人をはじめとするヨーロッパからの移住者が牽引力となり、工場労働者の間で定着。リオをしのぐ消費都市へと変貌していった。

戦前、コチア産業組合に出荷されるジャガイモ(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)
戦前、コチア産業組合に出荷されるジャガイモ(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)

イタリア人が富裕層の野菜食を低所得層に広げる

 サンパウロ市郊外に集団居住区を形成したイタリア人が野菜消費の主力となった。それまで富裕層だけの特別料理だった野菜が、低所得層へとひろまったのはイタリア人に負うところが大きい。
 サンパウロ市郊外へ住みついたイタリア人の数は多く、野菜消費の主役となった。その食習慣はサンパウロ市民の食生活に強く影響した。というよりは、食生活を根本的に変えてしまったというほうがあたっている。イタリア人は意識して野菜を食べたわけではなく、普及させる意図もなかったはずだが、結果的には、彼らが摂取しはじめたことにより、ポルトガル人零細農家の生計を助けることになった。
 イタリア人は野菜サラダを食べる。これが、20世紀にはいり、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人へとひろまり、1930年代には、工場労働者の常食となっていた。この時点で生野菜を食べないのは、東北ブラジルから流入した貧民だけだった。
 野菜摂取をひろめたイタリア人は、並行してコメも普及させた。ブラジルへ移住したイタリア人は庶民であるにもかかわらず、コムギとコメを栽培し自給。キャッサバ粉を忌避し、パンと米料理を主食とした。
 もうひとつ、イタリア人はパスタ類も普及させた。サンタカタリーナ州とリオ・グランデ・ド・スル州では、あちこちに植民地を造成したので、コムギを栽培し、水車を利用して製粉した。サンパウロ市ではそれができず、州内の内陸部で栽培したコムギを購入。ブラス区の食品工場でパンを焼き、あるいはスパゲティを製造した。
 コムギ粉の品質は悪いが、デンプンパンよりは上等のパンを焼くことができる。スパゲティをイタリア本国から輸入すると高くつく。国産コムギでがまんしたが、ポルトガル人富裕層もこれを食べたので、徐々に常食へと移行していった。
 19世紀末にはじまる料理の変化は、すぐリオへつたわった。やがて、サルヴァドール市、レシフェ市へと波及。ただし、内陸の地方都市へとひろまるのは、20世紀半ばのことである。

戦前のトマトの収穫の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)
戦前のトマトの収穫の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)

生産および流通の両面で活躍した日本人

 野菜がようやく副食として食卓にのぼりはじめたころ、1908年に日本人がやってきた。サンパウロ市近郊の日本人が野菜を増産しはじめた1930年代、消費人口の増大、購買力の高揚、野菜生産量増大は、ほぼ同じリズムで進行した。この10年間にサンパウロ市民が工業製品を利用した文化生活を営み始め、文化の向上は消費をうながし、まっさきに食卓を改善する。当然ながら野菜消費もふえていく。日本人はこの波にうまく乗った。
 1910年前後のメルカード・グランデには、すでにイタリア人、ドイツ人がいて、大きな商売をおこなっていた。ポルトガル人は数こそ多かったが取引量は少ない。あとから参入したイタリア人やドイツ人におされて、市場内のリーダーシップをとることはできなかった。青果物卸売商として日本人の参入はずっと遅く、1928年に新垣亀が委託販売人となる。その後、1931年から日本人がふえはじめた。
 日本人は生産および流通の両面で活躍。サンパウロ市近郊に集中し、1910年代後半、ジャガイモの大産地をつくりあげたあと、1920年代後半は、各種野菜の増産に献身する。生産の主力はイタリア人、ポルトガル人であっても、あらたな栽培品種を日本から導入し、普及させた点で顕著な活動をみせる。日本人の生産量はまだわずかだったが、栽培品種数をふやしたことにより、味や香り、色彩の相違で食卓をにぎわせた。
 卸売市場では、1934年に、委託販売人(およそ50人)のうち、20人が日本人だった。1939年には30人をこえ、市場内の主導権をにぎる。日本人の数がふえたのは、サンパウロ市近郊における日本人農家の野菜生産量が増大したからである。1933年末に、ジャガイモ農家をふくめ、サンパウロ市および近郊一帯で野菜類を栽培する農家は、2千戸近くあった。
 戦後まもなく、アメリカ文化と生活様式がブラジルへもはいってきた。1950年代をつうじて、とくにサンパウロ市で若者の間に定着した。いわゆるアメリカナイズである。これには、アメリカの農業技術が導入されてコムギの品種改良が進んだことが大きかった。
 コムギは高価であるから低所得層にとって「高嶺の花」だった。だが、サンパウロ市内で工場労働者として賃金をうけるイタリア人、ドイツ人はパンを購入した。この習慣は1960年代をつうじて、サンパウロ州内の地方都市にまでひろまり、人口数千の小都市でもパン屋の商売が成り立つようになる。
 パンの普及は野菜消費をうながす。なぜなら、パンと野菜サラダをセットにしたのが、アメリカの食文化だったからである。サンドイッチのひとつに、アメリカーノ(Sanduíche americano)というのがある。パンに生野菜(レタス、トマト、タマネギ)をはさんだもの。これがサンパウロ市の若者にうけ、どこのバールでも売るようになった。1970年ころにはサンパウロ州内にひろまり、これをきっかけにバウルーなど種類も多様化した。
 第2次大戦前にサラダといえば、イタリア人の食べ物だったが、サンパウロ市内では、戦後のパン食普及により低所得層にまでひろまった。地方都市へと波及するのは時間の問題だった。
 各州都都市では、野菜需要が急速に増大。1980年代になると、国民ひとりあたりの平均消費量は少なくても、人口20万人をこえる中都市では、野菜料理に関するかぎりヨーロッパの先進国と肩をならべるにいたった。とくに、葉野菜の消費が増大し、食文化の向上に貢献する。
 では野菜料理とはどんなものをいうのか。まず、野菜サラダ。20世紀にはいり、イタリア人が普及させたサラダは、レタス、トマト、タマネギの3点セット。きわめてシンプルなサラダだが、野菜を食べる習慣のなかった低所得層も味つけが気に入って食べはじめた。今日なお、バールにおけるサラダの定番とされる。

戦前のキャベツの収穫の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)
戦前のキャベツの収穫の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県 竹下写真館)

5大組合が生産と流通で大活躍した戦後

 1950年代から1960年代にかけて、サンパウロ市の青果物取引を牛耳ったのは日本人といってよい。とりわけ、日本人が設立した「5大組合」と呼ばれる農協(コチア、スールブラジル、産組中央会、モジ、バンデイランテ)は、取引量が大きかっただけでなく、販路拡張によりサンパウロ州内の地方都市、さらに他州でも野菜の新規需要を喚起。生産販売促進の原動力として機能した。
 日本人農家といえば「野菜づくり」というイメージが強かった。1950年代から1960年代にかけての20年間だけなら、日本人が野菜生産の主力だったということができる。
 1950年代から1980年代にかけて、日本人農家や日系研究者が作出した野菜果実の新品種はかなりある。トマト、ピーマン、カリフラワー、オクラ、クリ、グアバ、イタリアブドウ等々。もっとも高く評価されているのは、トマトの改良品種「サンタ・クルース」である。以上が中野論文の抜粋だ。

 ただし、1990年代には主要日系組合は相次いで倒産し、大きく流れが変わった。とはいえ、野菜以外でもアマゾン地方ではJuta(黄麻)を導入した高拓生、トメアスー移住地の胡椒やその後の森林農法推進など各地で様々な形の農業発展が見られ、この分野がブラジルに対する最大の日系貢献分野であることは間違いない。(深)


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