《記者コラム》知られざるイグアッペの今=100周年機に桂祭りで復活=清和友の会日系社会遺産ツアー(上)

ブラジルといえば誰もが「コーヒー」と連想する世界最大のコーヒー豆生産国において、日本人が戦後一時期、〝紅茶の都〟レジストロを築いたことは、半分忘却の彼方になりつつある。まして日露戦争に勝利した時の桂太郎総理大臣、大浦兼武内務大臣、高橋是清日銀総裁、〝日本の資本主義の父〟渋沢栄一ら錚々たる面々が、理想に燃えてブラジル移植民に日本の将来の一端を賭けようとした場所、最古の永住型日系移住地であるイグアッペの桂植民地の歴史はほぼ忘れ去られている。
そんな日系歴史遺産を身近に体験するツアー、 清和友の会(中沢宏一会長)の「第7回ブラジル日系社会遺産遺跡巡り」ツアーが6月21(土)~23日(月)、に実施され、31人が二泊三日でサンパウロ州イグアペ、レジストロ、セッチバーラス市をみて回った。コラム子は二日目夕方まで取材同行した。企画立案にはレジストロ市で活動するJICAボランティア隊員で地域振興の専門家・玉木栄一さんが協力した。

コラム子はニッケイ新聞時代、レジスト地方入植百周年を記念して2013年から14年にかけて127回の連載記事を書き、日本で『一粒の米もし死なずば―ブラジル日本移民レジストロ地方入植百周年』(2014年、無明舎出版)として刊行した縁があり、ツアーに同行した。
21日朝早くサンパウロ市を出発した一向は、200キロ余り南下して午前11時にイグアッペ日伯文協(ACNBI)会館に到着した。原木ジョルジ会長(56歳、3世)は「我々の歴史を知るために、こうやってサンパウロ市からやってきてもらって本当に嬉しい。桂祭りを通して活動を活性化させてきた。桂祭りの目的はズバリ、日本移民史におけるイグアッペ、桂植民地の意味を広く知らせることです」と意義を説いた。「皆さん桂植民地があった場所にはたくさんの物品が残されており、いずれ町の方に持ってきて史料館を作りたいというアイデアも出ている」との夢も語った。
前述の明治期の政財界の錚々たる面々が出資して作った東京シンジケート(青柳郁太郎代表)は1913年に25家族を入植させて桂植民地を設立した。常駐医師や日本人学校まで備えた先進的な受け入れ態勢を整えたが、農業経営が振るわず徐々に痩せ衰え、2000年代初頭に最後の日本人居住者が引き上げて、現在はブラジル人所有の農場になった。

野村ミルトン・ススム副会長は動画を見せながら約1時間、地域の歴史から桂植民地の現在までをじっくりと説明した。「こんな田舎だが、このように日本と深い歴史的な繋がりがあるという事実を、もっと日伯双方で広く知って欲しい。日本の自治体とも姉妹都市提携できるところを探したい」との要望を述べた。
イグアッペ市の開始は1538年と全国的に指折りの古い歴史を持つが、人口はいまだ3万人弱という経済的には停滞を続ける地方小都市だ。
入植100周年で復活を遂げたイグアッペ
2013年頃にコラム子が連載のために現地取材した頃のイグアッペ文協は、あるかないかよく分からない状態だった。だから桂植民地入植を祝うのがキッカケだったが、この地域一番の繁栄を誇るレジストロ文協を中心に「地域の100周年」として祝われた。
でも同年に始まった桂祭りが復活の狼煙となり、現在は見事に活性化を果たした。10年ぶりに訪れた会館は内部が綺麗にリニューアルされ、別の建物のようになっていた。桂植民地の歴史と共に、日系組織活性化の成功例としても注目に値する団体だ。
ジョルジ会長に「どうして活性化できたのか?」と質問すると、「祭りをやることで存在感が高まり、ボランティアがたくさん集まるようになり、自然と若者も集まるようになってきた」とのこと。「日本祭り」的なイベントを実施し、徐々に拡大することで地方団体が活性化するのは、各地で見られるパターンだ。

だが、桂祭りの場合、2015年の3回目で一旦中止となった。当時は式典を中心にした1日程度の行事だったという。だが場所代等を負担するはずだった公共機関が突然キャンセルし、その分を文協が予想外に負担するなどのドタバタが起き、資金的な問題から中断と当時の役員らが判断したようだ。
その後、ジョルジさんが役員入りした際、「どうして桂祭りをやらないの?」と質問したら、「赤字が出なければやってもいいよ」という話になり、当時サンパウロ市で軍警として働いていたミルトンさんに電話し、助けを求めると、快く協力が得られることになり、再開を決意した。
そして2019年に第4回として再開したが、パンデミックで翌年から2年間再び中断という不運に恵まれる。だがコロナ禍後、2023年に第5回を再々開して昨年の第7回まで続ける中で、3日間で数万人を動員する地域最大級のイベントにまで盛り上がってきたようだ。
「毎年イベントをやるようになると、それまでバラバラだったが、日系人としての誇りが強まり、どんどんボランティアが口コミで集まり、いろんな日系団体がアトラクションを協力してくれるようになった」と好循環が働いているという。

興味深いことにジョルジさんは元デカセギだ。1991年から96年まで神奈川県平塚市や厚木などの工場で働いていたので、日常会話程度の日本語もできる。日本で田舎の畑などで無人販売をしているのを見て、この祭り内でも始め、「野菜、ドッセ、花などを売っているが、一度も問題が起きたことはない」と胸をはる。
サンパウロ市で軍警として働いていたミルトンさん(62歳、3世)は、桂祭りをきっかけにイグアッペに戻ってきた。生まれはプレジデンテ・プルデンテだが6歳からイグアッペで育ち、17歳の時に進学のためにサンパウロ市へ出た。「でも家族はイグアッペだったし、母親が高齢になってきていた。それに会館を助けるために2018年からこっちに戻る決断をした」という。
このようにミルトンさんはパンデミック以降、桂祭りが本格化する際、なくてはならない存在として支えてきた。始まるべくして始まったイベントは不思議なもので、やっているうちにどんどん人材も集まってくるようだ。(つづく、深)