site.title

ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(210)

2025年7月23日

 この業界では、名の知れた業者であるらしかった。立派な新工場を建築中だった。

 自宅にも寄ったが、自分で作ったという日本刀を奥から持ち出して来て、

 「イザとなったら最後は、これで斬り死にするつもりだった」

 とギラリと抜いてみせた。おそろしく長かった。

 「イザ」が具体的にどういう事態なのかについての説明は無かったが、敗戦派や警察との闘いを想定していたのであろう。

 若い頃の写真も見せてくれたが、容貌の整った品の良さそうな青年であった。が、老夫人の話では相当の頑固者だったようだ。

 ともかく迫力十分な老人だった。筆者は「生きている戦勝派、臣道連盟員だ」と思った。

 数カ月後、サンパウロから電話をかけると、本人ではなく息子さんが出た。「亡くなりましたヨ」ということだった。

 話をDOPSに戻す。

 御真影の踏み絵については、前章で名の出た臣連本部理事の佐藤正雄も、その小著で触れている。(彼も留置されていた)

 踏み絵が始められたことを知り、同じ部屋の人々と「御真影の尊厳を守る事を決議」したという。

 もっとも、この踏み絵は『拘留報告記』によると「幸いに塩津氏(臣連情報部長)の決死的交渉により、これを中止し得た」という。

 別の資料では、踏み絵のことは、直ぐ首都リオ・デ・ジャネイロに伝わり、司法大臣が飛行機で急行、差し止めた…ということになっている。

 リオに伝わったのは「ある被留置者の決死的行動により…」という。

 右の記述の詳細は不明である。

 御真影を踏むなどという行為は実際、死に勝る責め苦であった。それは、強引に踏まされた者の殆どが、その後、この件に関しては、堅く口を閉ざしてしまったことからも判る。踏んでしまったことに強い罪の意識を感じていたのだ

 踏み絵は、御真影の代わりに日の丸である場合もあった。

 『拘留報告記』は、踏み絵を強要したのは秘密業務課のロンドンら七、八人の刑事であったと記している。

 彼らの上司の課長はゼラルド・カルドーゾ・デ・メーロ、そのまた上のDOPSの部長はヴェナシオ・アイレスという名前であったとも記している。

 しかし、こんな拷問を誰が思いついたのだろうか。こういうことは日本人以外、発想しないであろう。ほかの民族の歴史の中に、踏み絵という拷問があった…というような話は聞いたことはない。 

 被留置者たちも、この踏み絵の陰に、日本人の存在を感じ取っていた。その目に留まったのが、DOPSに自由に出入りし取調べの現場にもいた二人の日本人であった。藤平正義と森田芳一である。

 藤平は取調べを、やや離れた所から観ていた。

 森田は取調べの通訳をしていた。踏み絵の時には、それを強要する刑事たちの近くに立っていた。

 被留置者たちは、踏み絵が二人の入れ知恵ではないか…と疑い「少なくとも、日本人なら身を挺しても制止すべきこの拷問を黙って見ていた二人」に激しい憤りを覚えた。

 特に森田は日本・日本人の権益保護国スエーデンの領事館で、その権益保護の任務についていた。しかるに何らの抗議もしなかった。

 本章の末尾で記すが、この踏み絵が原因で森田は九カ月後に命を狙われ、罪もない人間が一人、誤殺されることになる。

 踏み絵が始まったのが四月六日、中止は十日であった。

 この間、八日、DOPSは、

 「シンドウ・レンメイは壊滅した」

 と誇らしげに発表している。

 本部・支部の役員全員を検挙した以上、壊滅ということになるのであろう。

 DOPSと同種の残虐な留置・取調べは、地方の警察でも起きていた。

 それに関して、ノロエステ線地方、州境近くのアリアンサ移住地に住む雁田盛重という臣道連盟員が、手記を残している。

 雁田は、この年の四月から八月まで、四回、ミランドポリスの警察に留置された。(ミランドポリス=アリアンサ移住地の在るムニシピオ。当時は町ていどの規模)

 一回目は三×四㍍の房に、四十二人もの人間が押し込められた。

 寒い夜であったが、コンクリート製の室内でシャツ一枚にさせられた。皆、一睡もできなかった。

 翌日の夕刻、釈放されるまで、水一滴与えられなかった。

 便器はなく、糞尿は垂れ流しとなった。

 取調べはなかった。

 留置されたのは皆、連盟員であった。

 二回目の留置では、鴈田は警官から、

 「日本は、勝ったか敗けたか」

 と訊かれ、

 「勝った」

 と答え、五、六発殴られた。(つづく)


ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(209)前の記事 ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(209)
Loading...