ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(223)
「朝、市の中央部に二、三百人の伯人が集合、気勢を上ぐ。八時半には千五百人くらいの伯人が暴れ出し、馬で邦人を追いかける、殴る蹴る…(略)…家の二階の窓の隙間から見ていると、無慮数千人が、丁度波の如く日本人の店や家へ押しかける…(略)…民衆は四方八方で暴れている。一陣去り、また一陣来る。子供が、ここも日本人の家だと教えている…(略)…向こうを日本人の一青年が手を挙げて走っているのが見える。後で聞けば、そのまま警察へ逃げ込んだ…(略)…一人は女房の着物を着て頭にレンソをつけ伯人の家に逃げ込んだ…(略)…老人がカーマの下に隠れていたところ引っ張り出されて板切れや棒で殴られながら警察に逃げ込んだ…(略)…(暴徒が)境某の右腕をフォイセで切る。子供の病気で薬を買いにきていた人、翌日死亡…(略)…マリリアの州警兵の司令官が、飛行機で飛んできて上空を旋回した…(略)…ツッパンから軍隊が出動した…(略)…バウルーからも援軍が到着した」
この通りとすれば、大変な暴動ということになる。筆者も、既刊の『百年の水流』に、その概略を紹介した。
が、異論が現れた。
事件の実際を目撃したという人が、二〇一二年一月現在、同地に健在で、訪問した筆者に話してくれたのである。浅野多津夫という名前で九十二歳だった。
「ワシは騒ぎを、町の中心部の家の二階から見ていた…(略)…ワシのオジがバールで殴られた…(略)…百姓の日本人がウロウロしていて、後ろから肩を刺された。死んだ…(略)…ワシのいとこが、向こうでワイワイ騒いでいた外人に向かって行った…(略)…ツッパンから兵隊が来た」
しかし暴動については、
「そんなことはなかった」
と、否定した。
重軽傷五十人説についても、首を横に振った。
つまり騒ぎがあり、日本人一人が死亡、軍隊まで動いたことは事実だが、暴動というほどの規模ではなかったというのである。阿部豊宅での爆発も、
「花火を仕掛けられ、それが破裂しただけのこと。阿部の息子さんの話だと、ハッキリ言って嫌がらせ。本物の爆弾ではなかったそうだ」
と否定した。
ちなみに二〇一二年現在、地元の文協の斉藤修三副会長も、
「私は、事件後ずっと経ってから、ここへ来たが、そんな暴動があったという様な話は聞いていない」
と否定した。
もう一人、事件当時、この町のやはり中心街に居って商店を営んでいた西谷博という人が、二〇一二年二月現在、サンパウロに住んで居ることが判り、話を聴くことができた。
一九一九年生まれで、九十二歳ということであった。
「朝、隣家のブラジル人から、今日は店を開けない方がよい、と注意された…(略)…周囲は騒然としていた。店から三、四十㍍の処で、日本人が角材で頭を叩かれ、後で死んだと聞いた…(略)…ブラジル人が興奮して、日本人を三人やったとか四人やったとか話していた。日本人がナイフで刺されたり、何かで叩かれたりしたと、これも後で聞いた。
が、自分は見ていない。重軽傷五十人などということはない。十人くらいでしょう…(略)…昼ごろ、ツッパンから五十人足らずの兵隊が来て、街角に二、三人ずつ立った。それで騒ぎは収まった…(略)…当時、新聞に書かれたような暴動という様なことはなかった」
オズヴァルド・クルース暴動といえば有名であるが、内容は記録、証言によって、これだけ違う。日本人一人の死亡の様子もマチマチだ。
暴動そのものの規模についていえば、筆者の印象では浅野、西谷の話の方に現実感がある。
オズヴァルド・クルースは、筆者がこの項を手直ししている二〇二三年現在でも、人口は三万ほどのムニシピオだ。
ムニシピオになったのは一九四五年である。翌年起きたこの暴動の頃は、規模は小さな町くらい、中心部に小規模な商店・事務所・住宅街があって、人口は周辺の農業地帯を含めても一万は行かなかったであろう。
当時、地方のムニシピオは、人口数千人で創立されている。街区は外れから外れまで歩いても、数分といったところであったろう。
従って、安部の記録の如く、数千人が暴徒化したというのは不自然である。
また、こういう場合、殆どの住民は家の中に閉じ籠ってしまう。暴動に加わるのは、貧民窟の住民が多い。騒ぎに紛れての略奪が目的である。(つづく)