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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(225)

2025年8月14日

 この内容からすると、臣道連盟その他の団体は、政治行動または社会運動を行うテロ団にされてしまっている。実際は、その様なことは何もしていなかった。

 また「連盟員は十万以上」という馬鹿馬鹿しい数字を、司法大臣や大統領まで信じていたわけだ。

 情況誤認は、遂にここまで連鎖・拡大してしまっていたのである。

 なお、この国外追放令が出た時、アンシエッタに居った該当者たちは、山下博美によると、

 「日本に帰れるゾ!」

 と、皆、ワッと喜んだという。

 島の生活

 ここで、ついでにアンシエッタでの生活に触れておくと。――

 島流し、刑務所での生活…というと、誰でも暗く苛酷な日々を想像する。が、実際は違っていた。仰げば紺碧の空、望めば群青の海…と風景はすばらしかった。

 刑務所は近代的で、施設は整備され、監房も清潔で広く、制服、下着、日常の生活用品を支給され、看守の態度もよかった。

 すぐ傍に砂浜があり、仕事の合間に海水浴を楽しむこともできた。

 老人や病人は労役を免除された。診療所もあり、健康診断も定期的に行われた。

 土曜は半休、日曜は全休で島内での外出が自由だった。

 労役は主として農業で蔬菜班、バナナ班、マンジョカ班、フェイジョン班などに編成され、作業に従事した。

 仲間の一人が班長となり、毎朝、号令をかけて仕事にでかけた。看守が同行することは殆どなかった。鍛冶、木工、その他の職場もあった。

アンシエッタ島での山内親子
アンシエッタ島での山内親子

 前出のツッパンの山内房俊は、父親の健次郎と共に、ここに送られてきていた。機械類に詳しかったため、その修理の仕事を任された。自動車や船による輸送業務の管理も任された。その助手を看守が務め、房俊は拳銃を腰に下げて、彼らを使うことを許されたという。変わった刑務所があったものである。

 もっとも、ここに送られてきた人々は受刑囚ではなく、起訴以前の段階であり、規則もよく守ったので、特別扱いされたのである。

 一人だけ意地の悪い看守が居た。人々は、彼にモリタとあだ名をつけた。森田芳一も随分、憎まれてしまったものである。

 別の獄舎に本物の受刑者が多数いて、こちらは本来の囚人の扱いを受けていた。

 日高徳一は、ここで、バストスの溝部事件の山本悟と会ったという。山本は、溝部事件とは関係なく、警察に刈り込まれて、この島まで来てしまっていた。何故そうなったかは当人も判らなかったという。

 その山本が「溝部をやったのは自分だ」と打ち明けたので、日高は自首を勧めた。山本は、その後サンパウロの拘置所へ移された。

 さらに事件が…

 八月十五日。

 場所はツッパン。

 終戦記念日を機に、何か起こるのではないか、という噂が流れていた。が、この日は不発に終わった。

 翌十六日。

 敗戦派襲撃が数件、発生した。

 襲撃者は、ツッパンから七〇㌔ほど北、前出のビリグイ方面の戦勝派グループだった。

 従って、ツッパンの住人だった日高や山下は彼らを知らなかった。

 グループ側は、前日の終戦記念日を予定していたが、警戒が厳重で、一日ずらしたという。

 標的とされたのは、前章で記した日の丸事件の折の岡崎司三、その仲間の新田健次郎ら敗戦派である。

 襲撃は一人一殺方式で行われた、その中で、後々最も話題を集めたのが、加藤幸平による岡崎襲撃である。

 岡崎は日の丸事件の直後、警察に協力してとった行動が、戦勝派を激昂させていた。

 語り伝えられるその襲撃は映画のシーンの様である。(つづく)


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