ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(225)
この内容からすると、臣道連盟その他の団体は、政治行動または社会運動を行うテロ団にされてしまっている。実際は、その様なことは何もしていなかった。
また「連盟員は十万以上」という馬鹿馬鹿しい数字を、司法大臣や大統領まで信じていたわけだ。
情況誤認は、遂にここまで連鎖・拡大してしまっていたのである。
なお、この国外追放令が出た時、アンシエッタに居った該当者たちは、山下博美によると、
「日本に帰れるゾ!」
と、皆、ワッと喜んだという。
島の生活
ここで、ついでにアンシエッタでの生活に触れておくと。――
島流し、刑務所での生活…というと、誰でも暗く苛酷な日々を想像する。が、実際は違っていた。仰げば紺碧の空、望めば群青の海…と風景はすばらしかった。
刑務所は近代的で、施設は整備され、監房も清潔で広く、制服、下着、日常の生活用品を支給され、看守の態度もよかった。
すぐ傍に砂浜があり、仕事の合間に海水浴を楽しむこともできた。
老人や病人は労役を免除された。診療所もあり、健康診断も定期的に行われた。
土曜は半休、日曜は全休で島内での外出が自由だった。
労役は主として農業で蔬菜班、バナナ班、マンジョカ班、フェイジョン班などに編成され、作業に従事した。
仲間の一人が班長となり、毎朝、号令をかけて仕事にでかけた。看守が同行することは殆どなかった。鍛冶、木工、その他の職場もあった。

前出のツッパンの山内房俊は、父親の健次郎と共に、ここに送られてきていた。機械類に詳しかったため、その修理の仕事を任された。自動車や船による輸送業務の管理も任された。その助手を看守が務め、房俊は拳銃を腰に下げて、彼らを使うことを許されたという。変わった刑務所があったものである。
もっとも、ここに送られてきた人々は受刑囚ではなく、起訴以前の段階であり、規則もよく守ったので、特別扱いされたのである。
一人だけ意地の悪い看守が居た。人々は、彼にモリタとあだ名をつけた。森田芳一も随分、憎まれてしまったものである。
別の獄舎に本物の受刑者が多数いて、こちらは本来の囚人の扱いを受けていた。
日高徳一は、ここで、バストスの溝部事件の山本悟と会ったという。山本は、溝部事件とは関係なく、警察に刈り込まれて、この島まで来てしまっていた。何故そうなったかは当人も判らなかったという。
その山本が「溝部をやったのは自分だ」と打ち明けたので、日高は自首を勧めた。山本は、その後サンパウロの拘置所へ移された。
さらに事件が…
八月十五日。
場所はツッパン。
終戦記念日を機に、何か起こるのではないか、という噂が流れていた。が、この日は不発に終わった。
翌十六日。
敗戦派襲撃が数件、発生した。
襲撃者は、ツッパンから七〇㌔ほど北、前出のビリグイ方面の戦勝派グループだった。
従って、ツッパンの住人だった日高や山下は彼らを知らなかった。
グループ側は、前日の終戦記念日を予定していたが、警戒が厳重で、一日ずらしたという。
標的とされたのは、前章で記した日の丸事件の折の岡崎司三、その仲間の新田健次郎ら敗戦派である。
襲撃は一人一殺方式で行われた、その中で、後々最も話題を集めたのが、加藤幸平による岡崎襲撃である。
岡崎は日の丸事件の直後、警察に協力してとった行動が、戦勝派を激昂させていた。
語り伝えられるその襲撃は映画のシーンの様である。(つづく)