ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(227)
この時の話も映画風である。警官が拷問用の鞭で彼女を殴った。すると、パッと上着を脱ぎ、下着姿になり、
「上着の上から叩いても、痛くも何ともない。サアー、これで殴れ!」
と叫んだ。警官はたじろいで、殴るのを止めた━━という。
殺気立っていたのは、男だけではなかったのだ。
この平間の姉を含むツッパンの五人の女性が、一時期、サンパウロの未決囚拘置所に居たことが記録に残っている。
名前は藤井さく、平間いそ、平間さだ子、後藤敏子、新苗てる。
拘置所入りした事情は不明だが、その時撮った写真を見ると、皆、毅然としている。
八月二十日、奥ソロカバナ線地方アバレーで岡本良平という敗戦派が襲撃された。
この時は、岡本が機先を制して反撃、無傷で難を逃れた。
襲撃者は戦勝派古川九十九ほか二人で、こちらは負傷者が出た。
八月三十日、ブラウーナで、タシロ・タケジ夫妻が襲撃され負傷。襲撃者は戦勝派松家グループと資料にはある。松家の名は次章で登場する。
この八月、日時については不明だが、パウリスタ延長線からサンパウロへ出て来た三人の若者が、コチア産組の下元健吉を狙って、ピニェイロスの組合本部に接近した。
が、近くのバールへカフェーを呑もうとして入ったところを、警備中の警官に逮捕された。
ツッパンの上崎孝一、水島功、ルセッリアの助川務であった。
前章で、日高徳一が決起を決意した時「もう二人誘いたい仲間がいたが…云々」と語っているのは、この上崎と水島のことである。
彼らも臣道連盟の青年部員であったが、連盟とは関係なく行動していた。
ところで、これら襲撃が七、八月に頻発したのは、何故だろうか?
終戦一周年の前後であったためもあった。
さらに、四月一日事件以降のDOPSや地方警察の残虐さ、その背後での敗戦派の工作が、釈放者によって広く伝わっていたこともある。
六月頃からは、各地で敗戦派の自警団が発足、武装して敵対的行動を始めていたことにもよる。
戦勝派の戦意の熱度が上昇、沸点に達し爆発したのである。
同時期、リオで新憲法を審議中の国会で、事件続発を問題化した一部議員から「日本移民の受入れ禁止」条項が提出された。
提案者の一人は、一九三四年の排日法を成立させたミゲール・コウトの息子であった。(五章参照)
月末に至り採決の結果、賛否同数となり、議長が反対に一票を投じ否決された。議長の反対理由は「憲法に、人種差別歴然たる条項を盛り込むことは、好ましくない」というものであった。
歴史的な際どい一瞬だった。
証言
銃撃戦の実際
こうした中、警官隊と戦勝派が銃撃戦をするという事件が発生した。
八月中旬、既述のブラウーナ付近、リオ・フェイオ沿岸の森林中に集まり密議していた戦勝派が、警官たちに包囲され、銃火を交えた。
戦勝派は負傷一名を残して、姿を消した。
十月一日。
ブラウーナの警官隊が東隣りの開拓地サン・マルチーニョの戦勝派のアジトを襲った。
この時も銃撃戦となり、戦勝派は殆どが逃走、一人残った嶋野並路が射殺された。
後で、その遺体が余りにも惨(むご)たらしい破損のされ方であったことが判り、戦勝派を悲憤させた。
右二件、警官がやったということになっているが、実は自警団も一緒に居り、彼らも撃ったのではないか……という疑惑が語り継がれることになった。
筆者は、長くこの疑惑の真実を知りたい、と思っていた。
彼らも武器を手に戦ったのか? 戦勝派を撃ったのか?
が、十年ほど、その機会を得なかった。ところが、サン・マルチーニョに関しては、偶然に得た。
警官隊による戦勝派のアジト襲撃の折、自警団が同行しており、その中に前出のスザノの稗田長之が加わっていたのである。
稗田は、貴重な証言をしてくれた。
「父の死後、稗田家はハッキリ敗戦派になった。ブラウーナの警察署…といっても、署員はごく少数だったが…その署長の勧めで、敗戦派は自警団をつくった。
三八口径の拳銃を、警察の許可証つきで所持した。
アレは、日にちは覚えていないが、十月頃、警察が『戦勝派が潜伏している』というので、自警団も出動した。
警官が三、四人、自警団を合わせて全部で十二、三人、小型の貨物自動車に乗って出かけた。
栄拓植民地の南方、小野という人が所有する山の中に隠れているということだったが、居なかった。(つづく)