開拓当時の苦闘物語 (1)=サンパウロ 吉田しのぶ
1961年1月11日『あるぜんちな丸』で私達新婚夫婦はサントス港に降り立った。
主人は30歳、私は25歳であった。瀬戸の花嫁として島に嫁いで夫の実家には15日間しかいなかった。あの時代日本は移民政策を遂行していて、二人ともブラジル行を希望していたので、夫は島の町役場の移民課に、私は生まれた町の町役場の移民課にそれぞれ願書を提出していた。いうなれば町役場同士の紹介で私達は結ばれたのである。結婚式にはそれぞれの役場の町長がご臨席くださり、盛大な結婚式であった。
45日間の航海中、新婚夫婦でもあり極楽の絶頂にあったが、サントス港に降り立った途端地獄が待ち構えていた。大きなカミニョンでパトロンの息子さんが迎えに来てくれて初対面の挨拶をした。同県人のパトロンの家に着いてパトロンご夫妻と息子さん娘さん3人のご家族でバタタ作りと養鶏を営む農家であった。翌日からは早速バタタつくりの準備であった。
再生林を切り、焼き払ったあとの根株を掘る作業に駆り出された。鈴蛇に出くわして「お母さん助けて」と母もいないのに悲鳴をあげる騒ぎにカマラーダ達に大笑いされ、これはとんでもない所にきてしまったと後悔が先にたった。
トッコ堀の経験もない私の力では到底無理であった。夫が見かねて「小さい根株だけ掘ったらよい、大きいのは俺が掘る」と言ってくれたが、1日で手に血豆が出来て鍬が握れなくなった。翌日からは養鶏の手伝いにまわされた。
鶏舎内の掃除と飼料運び、卵の回収が主な仕事であった。夕食後は卵の出荷準備である。
卵を選別して箱に詰める作業で毎晩12時ごろまで休む暇なしである。トマト作りの農家でもあったので、2万本のトマトを作る作業に夫は毎日農薬を浴びて具合が悪くなり医者の診察を受ける羽目となった。「農薬を吸ったくらいで医者に行くとは、そんなことで百姓ができますか」とパトロンからこっぴどく叱られて4年契約の所2年半で独立を申し出た。
パトロンの家から10キロ離れた荒れ果てた農地を借り受けてそこに掘っ建て小屋を建て、生まれたばかりの赤ん坊を連れてその地に引っ越した。
引っ越しに当たって今までの労働賃金は一切無しで、その代わり営農資金は肥料代だけ出して頂いて手始めにトマト作りに挑戦した。
井戸もなく百メートル離れた谷川の水が飲料水である。谷川も源流であったので水はきれいであった。
カマラーダを雇う資金もなく、2人で1万本のトマトを植えた。
子供の面倒を見る暇もなく、夜は月の光を頼りにトマテの芽欠きにエスタッカを立てて農作業に励んだ。
朝起きて十分にミルクを与え、おむつを替えて野良仕事に出たらお昼まで帰って来ないのである。
日本から持ってきた蚊帳を吊ってその中に寝かしつけ、野良に出るのである。
ある時、お昼時に帰ってみると蚊帳の裾を掴んでおしゃぶりしたのか、口の周りを真っ青にして母の姿を待ちわびていたのであろう、体中で喜びを表す姿にひしと抱きしめ「ごめんねごめんね」と溢れる涙を抑えることができなかった。
日本の母が持たせてくれた絣のおむつを替えてたっぷりのミルクを飲ませ、それから私達の昼ご飯の支度である。
時給自足の生活で、米、ミルク、しょう油、味噌、塩、砂糖それ以外買う金もなく、五羽の鶏が生む卵が唯一の栄養源であり肉魚等あの当時は贅沢品であったが子供はすくすくと育ってくれた。(続く)