ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(238)
ただ、日高によると、
「ロンドンと通訳の森田は、なんとか、我々を臣道連盟に結びつけようとしていた」
という。
山下も、こう思い出す。
「向こうは、連盟の命令で我々がやった…という風に、調書を作ろうとしていた」
以上の諸材料から判断すれば「供述調書は改竄だらけ」という結論になる。
この種の改竄は珍しいことではない。警察における供述調書というものは、いつの時代、どこの国でも、警察側が書く。取調べを受ける側が断片的に話す言葉を、適当に文章にし、署名なり拇印をとる。
その折、予め筋書きをつくり、それに合う様に供述を引き出し、内容を作文して行く事は、よく知られている。
結論として言えば、DOPSの調書は、その改竄ぶりを証明する材料となっても、襲撃者と臣道連盟を結びつける裏付けとはならない。
低劣だった
刑事たち
DOPSは政治犯を扱う警察であり、その刑事は精鋭揃いであったろうと思われがちである。が、実は、その質は低劣だった。
前章で紹介した『拘留報告記』は、刑事たちの頭脳のお粗末さを嘆いている。事務が驚くほど乱雑で、すでに釈放された者を訊問に呼び出したり、訊問終了者と未終了者を混同したり、姓名を間違って記したり…という具合だった。
その刑事たちの中で最も酷かったのが、ロンドンである。

正式の名前はオゾリオ・トーゴー・ダルタグナン・ロンドンといった。日露戦争後、出生してくる子供の名前の一部にトーゴー(東郷)を使用することがブラジルでも流行った。
が、この男、その名を穢す大変な悪(わる)で、後に臣道連盟員から金品を強奪、暴行するという事件を起こしている。
その折のポルトガル語の新聞記事によると。━━
一九四六年十一月八日、夜八時頃、DOPSから郊外の日本人の一シャカラ(小農園)へ向かった刑事たちがいた。指揮をとっていたのはロンドンである。
彼らはシャカラで、中内義繁ほか一名の連盟員を逮捕した。この時、ロンドンは中内から所持物(現金四、四〇〇クルゼイロその他)を押収した。中内が押収証明書を要求すると、ロンドンは激昂し、
「俺の手に入ったモノは俺のモノだ!」
と怒鳴り、中内を殴ったり蹴ったりした。
ロンドンに助手として同行していたタチバナ(前章参照)も、同様に振舞った。
その後、彼らは二人を連れてDOPSへ戻り、看守に留置場へ入れることを要求した。が、看守は中内の身体の暴行の痕をみて、もし何か起これば、自分の責任になることを恐れ、翌朝、主任に報告した。
中内は事情聴取された後、法医の身体検査を受けた。その結果、審査委員会が開かれ、ロンドンは懲戒免職となった。
こういう男が、刑事たちの中に居たのである。しかも供述調書のすべてのエスクリヴォンを務めていたのだ。調書の内容は益々信用できない。
裁判所は不起訴、国外追放は取消し
そもそも、新聞記事や警察の調書のみに頼ることは、歴史研究の原則に反する。
頼るものがあるとすれば、それは裁判所の最終判決であろう。
が、十年史も八十年史も、裁判そのものには全く触れていない。
もし両資料が記す様に、連続襲撃事件が臣道連盟・特攻隊の犯行なら、連盟幹部は起訴され、裁判所で有罪判決を受けていなければならない。
しかし十一章で記した様に、裁判すら行われていないのだ。
それをもう少し詳しく記すと『空白のブラジル移民史』(前章参照)によれば、連盟幹部十名に関しては一九五〇年、サンパウロ中央裁判所で予審が行われ、不起訴となっている。
つまり連盟は罪を犯していず、幹部を裁く法廷を開く必要はない、という判定が下ったのである。(つづく)