ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(240)
臣道連盟が襲撃を指揮した、と疑われるのは、その中枢に軍人が居たことによる。が、サンパウロで起きた事件は、すでに記した様に、決行者自身が臣連との関係を明確に否定している。
その後、地方で事件が起こった時、本部役員であった吉川と渡真利は長期的に拘留されており、指揮などできる条件下にはなかった。
無論、それ以前に計画を立てておき、拘留中も、外部の連盟員と連絡をとって指揮していたという可能性も考えられる。が、そう推定できる材料はない。
地方にも軍人の役員はいた。
ビリグイの西方、ヴァルパライーゾという所に救仁郷十憲という連盟支部長が居た。退役陸軍大尉で剣道五段であった。ノロエステ線地方の連盟では、かなり重要な存在だった。
もし事件を連盟が指揮したとすれば、少なくとも同地方で起きたそれには関わりを持った筈である。
この大尉の息子さんが元下院議員、救仁郷靖憲である。
彼によると、十憲は当時、四十数人の若者に木銃を持たせ、毎朝、訓練をしていた。
事件が起きた時期、靖憲はロンドリーナの医科大学に在学中であったため「何も知らないが、父も、父の所へ出入りしていた人も、誰一人逮捕されていない。だから、事件とは関係なかったと思う」と言う。
この話によると、十憲は四月一日事件の直後の州警察による臣連本支部の役員の総検挙の折も、無事であったということになる。
そういうケースもあったのだ。
ともあれ、地方でも事件を連盟の軍人たちが指揮した痕跡はない。
何よりも、襲撃者たちはサンパウロ事件と同様、自分たちの行動の動機と目的を、世に伝える決起趣意書を出していない。軍人が指揮していたのであれば、そういう疎漏なことはしなかったであろう。
他にも臣連と襲撃事件の無関係を裏付ける材料はある。
臣連の本部に朝川甚三郎という職員が居って、晩年、援協のサントス厚生ホームに身を寄せていた。その朝川を、地元の文協の会長を務めていた上新(かみ あらた)が訪ねたことがある。
上は昔、バストスに居って、属していた居住区の団体が連盟に加盟していた。上は語る。
「私は、朝川に訊いた。テロは連盟がやったのか、と。朝川は、首をこう振って『関係ない』と…」
こう振って…と言いながら上は自分の首を横に振った。
さらに、早くから「襲撃事件は、臣道連盟がやった」と信じ、そう主張し続けた代表的存在に河合武夫という人が居った。河合は、臣連のテロによる死者は二十六人という数字まで繰り返し口にしていた。
コチア産組の中堅職員時代、認識運動で下元健吉の片腕であった。
二〇〇五年九月に死亡したが、その数カ月前、筆者はサンパウロのピニェイロスの自宅に彼を訪れた。
ただ、当人は百歳に近く、耳も遠くなっているかもしれぬと懸念して質問書を持参、最初にそれを読んでもらった。
河合は読んだ後、
「ウン、よくできている」
と頷いていた。
が、質問事項に対する回答はせず、別のことをしゃべり始めた。それが延々と続く。やむを得ずその話に割り込んで、質問事項の一つ一つを訊ねたが、回答らしい回答はなかった。
質問は数項目あったが、内、筆者が適確な回答を最も欲したのは、次の二つであった。
「河合さんは、バストスの溝部襲撃及びその後の事件も含めて、臣道連盟が組織的、計画的にやったことだと主張してこられましたが、それを裏付ける材料は、どのようなモノがありましたか?」
「私が会った襲撃実行者やその同志は、臣連の命令によるものではなく、自分たちの自主的行動だった、と証言しています。彼らの中には、連盟に参加していた人もいるのですが、やはり、連盟とは関係なくやったと証言しております」
これに対する河合の答えは、極めて短かった。前者については「無い」であり、後者については不機嫌そうに声を荒くして、
「そりゃ、名前を変えれば、いくらでも、そうなるサ」
と、言ったのみである。
(この人が、こういう具合では、あの事件は臣連がヤッたという確かな裏づけは、誰も持っていないのではなかろうか、臣連がやったと思い込んでいるだけではあるまいか…)と、筆者は帰途、気づいた。
以上の様な事実の確認の他にも、筆者は念のため、臣連と事件の関係を追究、両者の接点に注意を払い続けた。(つづく)