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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(250)

2025年9月18日


リンスの臣連支部長だった吉井碧水は、DOPSで丸裸にされたときの屈辱感を、こう記している。

「実に残酷極まる仕打ち。呆然自失して放心の態。恨み骨髄に徹する。

この世に生を受けて五十年、かくのごとき屈辱をうけしことは、かつてなし。

それもこれも、ことごとく同族の不逞なる奸策によると思えば、永久に忘れるべからざる、この日この時を……」

同族とは、敗戦派、特に認識運動の推進者・活動家のことであろう。

吉井は、共に逮捕された娘婿の宮原一夫が拘禁中に精神に異常を来たし、結局サン・ジョゼー・ドス・カンポスの刑務所病院で死亡している。

(アンシエッタで、看守の暴行を受けた池田福男が死んだ所である)

またアリアンサの雁田盛重は手記の中で、ミランドポリスの警察で、延べ九十七人が留置され、拷問が原因で一人が死亡、後遺症のため一、二年就労不能となった者が六人出た、と書いている。

右は一部の事例に過ぎない。

このヤラレ放しの数は、敗戦派の被害者より、桁違いに多い。

日高が、ある時、筆者にこう強調した。

「こちらは、向こうより、大規模にヤラレた」

ところで警察は、その狩り込んだ数千人をどうやって選び出したのか?

四月一日事件の直後は、路上やバールから誰かれ構わず引っ張った。

が、これは一部で、他は相応の容疑があって、そうした筈である。

しかし警察は日系社会のことは判らず、自力で戦勝派の中から、何らかの容疑ある分子を数千人も探し出すことなど出来なかった。

刑事の下っ端に日系人がごく少数居たが、それだけでは到底手が回らない。

臣連がDOPSに騙されて提出した本・支部の役員名簿もあったが、その数は数百人であったろう。

それ以外は、誰かの通報によった筈である。

この通報は無論、地域々々の情報通でなければ、無理である。ここに通報者…戦勝派の言う「密告者」の存在が浮上してくる。

その密告者について、憩の園の入園者の聞取り調査資料(九章参照)に、一女性(終戦時19歳)の次の様な談話が記載されている。

「お父さんは勝ち組のアレで、一年留置所へ連れて行かれましたもんね。その時、お母さんと二人で家を守って、そして一生懸命お母さんと二人で働いて、私は毎月サンパウロの留置所に来ました。

当時はポンペイアに住んでいました。お父さんは勝ち組だったのです。近くに住む悪い日本人が密告したからです」(話の中の留置所は、留置場あるいは拘置所のことであろう)

警察への密告者の存在については、戦時中も盛んに噂されたが、この戦勝派の狩り込みでも同じであった。

認識運動の推進者・活動家は実際、警察と連携していた。無論、彼らからすれば、密告などという言葉は心外で、自衛のための通報であったろう。

が、結果から見れば、数千人が冤罪で堪えがたい暴挙に遭っている。

この事実は、その後長く放置されてしまった。

通説・認識派史観は、この事実を黙殺している。

この他、国外追放処分を受けた人々は、一九五〇年代末から、その処分の事実上の取消しが行われた。

が、処分時、身分証明書が没収されており、これが行政機関の事務の混乱から、返還されなかった。ために日常生活に、支障が生じた。例えば不動産の所有ができない、といった類の…。

彼らの多くは、この国に愛想が尽き、日本へ帰国しようとしたが、身分証明書がないため、その手続きも出来なかった。

ともかく後遺症は多種・無数であった。


人々のその後


この辺で、これまでに登場した人々のその後を、判る範囲内で記しておく。

先ず、サンパウロでの四件の事件を計画した押岩嵩雄やその決行者たちの場合。━━

一九五二年。

押岩は釈放された。五年と少しの拘置所生活であった。

押岩談。

「ワシの裁判は最後になった。オールデン・ポリチカで、自分が事件の指揮者であると言ったので、一番重い罪になると覚悟していた。

『お前の裁判だ』と呼出しを受け、二度、裁判所まで連れて行かれたが、二度とも夕方まで待たされただけで、裁判は開かれなかった。

裁判長が受けつけなかったそうだ。(つづく)


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