追悼文=お世話になったコトジさん=ブラジル日報外部記者 淀貴彦

村上コトジさんが、突如亡くなった。行年81歳。
不思議なことに、訃報を聞く前日に夢にコトジさんが現れた。夢では、サンパウロに戻った私が村上夫妻の家で彼女特製のすき焼きをご馳走になりながら、「淀さん元気にしてたの!? 久々なんだから今日は泊まっていきなさい!」と言うシーンだった。
そして今住む北東伯での暮らしを話すと、彼女は珍しく「うんうん」と聞いているだけ。いつもならそこから止まらない口調で話し出すのに・・・。
そんな奇妙な夢を見たので、サンパウロの新聞社の石川さんに冗談交じりに伝えたところ、「実は今コトジさんの訃報が入ってきたんだ-」と言われ驚いた。あの世に行く前に夢の中で会いにきてくれたんだと思い、心に寂しさと同時に温かさを感じた。
コトジさんとの出会いは2020年。同年、単身でブラジルに移住した私は当時在った邦字紙ニッケイ新聞で働いていた。コトジさんと夫の佳和さんはたびたび新聞社に訪れ、「新聞社にはお世話になってるから!」と、そのたびにお菓子や手製の料理を差し入れてくれた。
日本から単身移住したということもあり、会うたびに気にかけてくれて、仕事終わりや休みの日は家に招待してくれ、何度も腹一杯ご飯を食べさせてもらった。
広島風お好み焼きや五目ちらし寿司、鮭のハラミをタレと共に焼いた鰻もどき丼、しじみ汁や炊き込みご飯。いつも温もりある美味しいご飯をご馳走してくれた。
当時はコロナ禍で物価が上がる一方、新聞社の給料は最低賃金で極貧生活。そんな中でご馳走になり、本当に助けてもらったことを感謝している。
会うたびに「Murakami Kotogi」と書かれた紙が貼られた透明ビニールのポーチに、飴やどこで買ったのかと思うようなハートのペンダントを入れてプレゼントしてくれたり、日系スーパーで買ったラーメンをくれたり。何度も世話になった。
生粋の押しの営業マンであるコトジさんは話が流暢すぎて、一度口を開けるとこちらが区切らない限り止まらない。さてそろそろと思うも、なかなか話が止まらず立ち話で1時間以上というのもざらだったが、今思うと、そのやり取りすら恋しい。
今の妻と交際を始めた当初も、まだ会ってもいないのに「大丈夫なのか!? 気をつけないと! 日本人でお金持ちと思われて騙されてないか!?」と、まるで母親のように心配してくれた。いじけた気分になったこともあったが、そういう意味でブラジルでの母親代わりのような存在だったと思う。
自分がヤマト商事に勤めていた時も、営業先がリベルダーデだったことからよく顔を合わせた。お互い倹約家だったことから、スーパーで日本産品の値引き商品を見つけると送り合った仲だった。
家に招かれた時、私がヤマト商事の営業マンをやっていることを知ると、過去に訪問販売をしていたコトジさんはまるで自分のことのように喜び、「営業はいい仕事よ〜!」と何度も言っていた。そしてコトジさんが営業のプレゼンを披露したビデオを、4回も見せてくれたのは今となっては笑える思い出だ。
コトジさんは太陽やひまわりのように明るく、いつも徳のある笑顔で場の空気を一気に変えるような人だった。
今年初めに妻と共に北東伯に引っ越して以来、会う機会はすっかりなくなってしまった。だが紆余曲折あり、来月には再びサンパウロに戻る予定で、てっきりまた会えるものと思っていた。
ブラジルに住んで5年。移住当初よりは少し生活がマシになったが、今の自分がこうして暮らせているのは、コトジさん、そして村上夫妻が極貧時代に助けてくれたからだと心から感謝している。
コトジさん、本当にありがとう。あの世でもパワフルで明るい性格で、コトジ節を響かせながらみんなを笑顔にしてください。