site.title

《寄稿》追悼 稀代の音楽家エルメート・パスコアル=89年の生涯と私が見た日本とのつながり 青木義道(滋賀県在住)

2025年9月19日

画像スライダー (2枚)

ブラジル日本移民100周年記念曲も作曲


「ブラジルは音楽と文化の両面で多大な恩恵を受けた。アラピラーカ出身のアラゴアーノの才能と尽きることのない創造力で、国際的な評価を受けた。そして、世界中の様々な世代の音楽家たちに影響を与えた」と、9月13日の訃報を知ったルーラ大統領はSNS上で彼の偉大な功績を讃えた。

エルメート・パスコアル(以下エルメート)は、1936年6月22日、ブラジル北東部のアラゴアス州ラゴーア・ダ・カノーアに生まれた。独学で様々な楽器を習得し、日常生活で使うあらゆる物から動物までを自身の音楽に取り入れる唯一無二の音楽家としても知られた。彼が奏でる音楽は、生まれ故郷のブラジル北東部の音楽を基盤としつつも、ジャンルの垣根を超えた普遍的な音楽『MÚSICA UNIVERSAL』として、世界中のファンを魅了した。

エルメートは大の親日家でもあった。1979年に初来日し、2002年に再来日を果たした。2004年、2010年にも来日し、その後は世界中から様々な音楽家を招いて大規模な野外イベント等を開催するFRUEの情熱と尽力で、2017年から3年連続で来日。2023年が最後の来日公演となった。日本では、東京を中心に静岡や大阪、熊本、青森を訪れ、コンサート会場では子どもから年配の人まで幅広い世代のファンが集い、彼の音楽に酔いしれた。

私は2001年のブラジル留学中にサンパウロで出会って以来、家族ぐるみで交流するご縁をいただいた。ここでは、私が知るエルメートと日本とのつながりについて紹介したい。

ブラジル移民100周年の2008年、私は学生時代の恩師である田所清克京都外国語大学名誉教授が主宰するブラジル民族文化研究センターの研究員として、教授らとともに記念本『愛するブラジル 愛する日本』(ブラジル民族文化研究センター編、金壽堂出版)の出版プロジェクトに関わらせていただいた。この本には、研究者やブラジルを愛する方々が自身の研究や想いをエッセイとして寄稿していた。

私はエルメートと、当時の妻であったアリーニ・モレーナに、日本やブラジル移民100周年についてインタビューをさせてもらった。この時エルメート夫妻は、当時住んでいたクリチバの自宅に招待してくれ、私の質問に誠意をもって応えてくれた。

エルメートはこの時、「日本の人々は、野や庭に咲く花のように、明るく勤勉で信心深い」と話していた。また、ブラジル移民100周年について、「ブラジルにおける日系人の存在は最も重要なことの一つで、日本文化はブラジルに多大な貢献をしている」と称賛していた。

そして、私を自宅近くのスタジオに連れて行き、ヴォイスパーカッションと水の入った紙コップを使って即興で『Nihon Banzai(日本万歳)』という曲を作曲・演奏し、ブラジル移民100周年を特別な形で祝福してくれた。演奏を終えたエルメートは「この曲は、遠く日本からブラジルへ夢と希望を抱いて渡った日本人たちを表現した」と話してくれた。この時の録音は、記念本の付録CDとして日の目を見ることとなった。

画像スライダー (3枚)

「日本は、曲を作るためのインスピレーションを与えてくれる」


ブラジル留学中の2001年にエルメートと出会って以来、その後も巨匠と私との交流は続いた。2006年に自宅に招待してくれた際には、日本への想いを色紙に綴ってくれたことがあるので、ここで紹介させていただきたい。

「日本は常に新しい世界だ。そしていつも私が曲を作るためのインスピレーションを与えてくれる。みなさんのご多幸をお祈りします。エルメート・パスコアル」

2010年12月2日にブラジル連邦共和国より文化功労勲章を受賞した際に、受賞式に家族や友人として会場であるリオデジャネイロの市立劇場に招いていただいたことは身に余る光栄であった。ルーラ大統領から笑顔で勲章を受け取る姿は昨日のように私の心に残っている。この日は偶然私の誕生日でもあり、それを知ったエルメートがその場で誕生日を祝って曲を作ってプレゼントしてくれたことは生涯忘れることのできない思い出となった。

2012年には、エルメートがリオデジャネイロを夫婦で訪れた際に、当時私が勤務していたリオデジャネイロ日本人学校を訪問し、生徒や教職員にサプライズで演奏を披露してくれた。ブラジルで生活する日本の子どもたちに、自身の音楽を通してブラジル文化を伝えたいという熱い想いと優しさに感激したことが記憶に新しい。

2017年の来日時には、エルメートは東京の宿泊先の部屋に私を呼び、特別な譜面をプレゼントしてくれた。自身の生誕80周年を記念し、家族やグループメンバーなど、親しい友人に一人ひとり作曲してプレゼントしているとのことであった。私は心から感謝の想いを伝えつつ、いただいた曲は日本で多くの方々とともに共有させてもらうことを約束した。

その2カ月後、私は友人たちとともに多文化共生のための交流会を地元・滋賀県で開催した。特別ゲストには、滋賀県出身で東京在住のジャズピアニスト青木弘武さんを招聘し、エルメートからいただいた曲を演奏・披露してもらった。会場はブラジル人が多く生活する滋賀県湖南市で、子どもから大人まで、世代やルーツを超えて多様な人々が交流する機会となった。

エルメートは、コンサート開催にあたってメッセージも贈ってくれ、当日に動画で紹介された。メッセージでは、「日本で生活するチャンスを生かし、日本語や日本文化を学んでください。言葉を学ぶことで、世界のことをよりたくさん知ることができ、この世界をさらに愛することができるでしょう」と、日本で生活するブラジルをはじめ外国にルーツのある子どもたちへの励ましの言葉を伝えてくれた。

画像スライダー (2枚)

Muito obrigado, mestre Hermeto Pascoal!!


エルメートにとっては2023年が最後の来日コンサートとなった。私や家族にとって直接の出会いはこの時が最後となってしまったが、誕生日の際には、これまでの感謝の言葉を音声メッセージで伝えてくれるなど交流は続いていた。亡くなる数カ月前には大規模なヨーロッパツアーを開催していたりしていただけに、今回の訃報は私にとっても信じられない悲しい知らせとなった。

この度の訃報に、ブラジルだけではなく、世界中のファンが悲しみに暮れている。エルメートのグループに1977年から50年近く在籍し、活動を共にしてきた音楽家のイチベレ・ヅァルギは、エルメートの逝去を受けて「悲しみ以上に感謝の想いに満ち溢れている。エルメートはこの地球上に音楽という光を灯しに来て、故郷へと旅立っていった。私たちは彼が伝えてくれたことを大切に受け継いでいきたい」と私に伝えてくれた。

エルメートの息子でグループの打楽器奏者であったファビオ・パスコアルは、1989年から父のグループに加入し、家族、そしてグループメンバーとして巨匠を支えてきた。ファビオは、これからもメンバーとともにエルメートの存在を近くに感じながら父の曲を演奏していくこと、『音楽の神様』エルメート・パスコアルの子どもとしていられたことへの感謝と敬意をSNS上で綴った。

『音の魔術師』とも称され、演奏家としてだけでなく、世界的な作曲家としても知られたエルメートは、その生涯で1万曲を超える膨大な数の曲を残したと言われる。共演経験もあった音楽家の故シヴーカは、エルメートを「20世紀のベートーベン」と激賞したと言われる。

1996年から1997年にかけては、1日一曲を作曲したcalendario do som(音のカレンダー)という譜面集を発表した。世界中の人々の誕生日に曲を捧げるというエルメートならではの茶目っ気と優しさ溢れる企画で、この中に収録されている曲は世界中の多くの音楽家たちによって演奏されている。

世界が誇るブラジルの音楽家エルメート・パスコアルが残した多くの曲は今後も世界中で愛され続けるであろう。そして、彼が提唱した『MÚSICA UNIVERSAL』は、今後も世界中の音楽家たちが継承・発展させていくことになるだろう。

私がエルメートに「音楽を始めたのはいつ?」ときいた時、「Dona Divina(エルメートの母親)のお腹から出てきて『おぎゃー』と泣いたときだよ」と、笑いながら話してくれたことが強く印象に残っている。

89年間、音楽とともに生き、世界中に音の宝石を鳴り響かせ、旅立っていった稀代の音楽家エルメート・パスコアルの人生と音楽、そして偉大な功績に想いを馳せながら、この場をお借りして改めて伝えさせていただきたい。Muito obrigado, mestre Hermeto Pascoal!!(ありがとう、エルメート・パスコアル先生!!)(終)


第1回リベルダーデ盆踊り=相川七瀬『ワッショイ!』熱唱前の記事 第1回リベルダーデ盆踊り=相川七瀬『ワッショイ!』熱唱
Loading...