ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(252)
上司が、
「お前の実力なら、地位は上がり、外国に研修に行ける。お前がブラジル人になっても、日本は何も感じないのだから、自分のことを第一に考えるべきだ」
と言って考え直す様、勧めた。
が、蒸野は、
「日本がどう感じるかは別問題。自分は日本人として生きて行く。自分の気持ちを裏切ることは出来ない」
と断った。
上司は、
「気が変わったら、いつでも自分を訪ねるように…」
と言ってくれた。
が、気持ちが変わることはなかった。ささやかなテレビの修理業を営んだ。
結婚して三人の子供も出来たため、生活は苦しかった。
筆者は蒸野に、
「事件に参加したことを、現在どう思っていますか?」
と訊ねたことがある。すると、キッパリこう答えた。
「そういう立場に置かれたことは、自分の運命だったと思っている」
以後も、筆者は蒸野と時々会ったが、長い間暮らしていた闇の中から、太陽の光の下に出てきた様に、明るくなった。六十年余、内に込めていたことを吐き出したからであろう。
二〇〇八年、日本移民ブラジル移住百周年記念式典が、東京から皇太子殿下(令和天皇)の臨席を得て開催された。
その時、共同通信の名波正晴記者(リオ駐在)たちの計らいで、蒸野は式典に参加、殿下の近くの席に座ることができた。
蒸野は、殿下を合掌して拝んでいた。
「なんと言ったらいいのか、ありがたくて、ありがたくて、涙が止まりませんでした…」
後日、聞いた言葉である。
翌二〇〇九年没。九十歳。
日高は(最後の日本人が逝った)と思ったという。
三岳久松は、DOPSから拘置所へ移され、ここに長く居った。やがて裁判があり十二年の刑を受けた。が、山下と同様、刑務所には送られず、そのまま拘置所に居た。共犯の蒸野三蔵も、同じだった。
三岳はここで絵の勉強をした。彼も刑期より相当早く出所したが、その後も働きながら絵の勉強を続け、画家になった。
事件のことで、周囲から冷たく扱われた経験はない。
以下は、他のグループの人々のその後である。
ツッパンの一人一殺事件の加藤幸平は、前記の押岩談によれば、裁判はツッパンで受けたことになっている。
しかしイツコ夫人の話だと、サンパウロの中央裁判所で判決を受けたという。刑期は三十年だった。
事件時、相手の胸部を三発撃っただけでなく、さらに後ろの首筋にトドメの一発を撃ち込んだことで、殺意があったと見做され刑期が長くなった。
カランジール刑務所で服役した。
服役中は模範囚で、毎日三〇分の外出が許された。ポルトンの側まで行くと、番人が黙って開けてくれた。
八年で仮釈となった。
刑務所では彼も絵を習い、出所後は画家として生活した。
仕事はこなしきれないほどあった。主に肖像画だった。
子供の教育が終わったら、本物の絵を描く、と言っていた。
子供は男の子が六人生まれた。
幸平の死については既に触れたが、五十六歳の若さだった。外出先で心臓麻痺で逝った。
以後、遺族の生活の苦労が始まった。子供たちは学校を夜の部にかえて働き始めた。
四男は、静岡県の県費留学生となり、日本で就職、コンピューターを輸出する貿易会社の社長になった。
夫人は夫の死後、詩吟や詩舞を習った。その思想や行動を理解するために、日本的なモノを知りたかったからである。
後に日本の宗家から免状を受け、指導者になった。
夫人談。
「加藤の父も加藤も(ある時期からは)戦争が負けたことは判っていました。お仲間の戦勝派の人たちも同じでした。けれど負けた、負けたとワザと言う必要はない…と。
日本を悪し様に言うのは許せない、勝ち負けの問題ではない、ということでした。
私は、日本は負けたことになっているが、勝ったと思っています。原爆使用や都市の無差別爆撃は、ルール違反。米国の負けです。
日本の国民は、未だ天皇陛下を崇め、大切にしてくれている。有難い、うれしい。
加藤は人間としての奥行きが深かった。転居する先々で日本語学校の父兄会長に選ばれました。
ソグロの加藤美作は面白い人でした。
自分は村一番の美男、女房は二番と下らぬ美女だったと言っていました。私が、その割には幸平は一寸落ちますね、と言うと、一寸どころか、ぐっと落ちる、と。大笑いしました」(つづく)