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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(252)

2025年9月20日

上司が、

「お前の実力なら、地位は上がり、外国に研修に行ける。お前がブラジル人になっても、日本は何も感じないのだから、自分のことを第一に考えるべきだ」

と言って考え直す様、勧めた。

が、蒸野は、

「日本がどう感じるかは別問題。自分は日本人として生きて行く。自分の気持ちを裏切ることは出来ない」

と断った。

上司は、

「気が変わったら、いつでも自分を訪ねるように…」

と言ってくれた。

が、気持ちが変わることはなかった。ささやかなテレビの修理業を営んだ。

結婚して三人の子供も出来たため、生活は苦しかった。

筆者は蒸野に、

「事件に参加したことを、現在どう思っていますか?」

と訊ねたことがある。すると、キッパリこう答えた。

「そういう立場に置かれたことは、自分の運命だったと思っている」

以後も、筆者は蒸野と時々会ったが、長い間暮らしていた闇の中から、太陽の光の下に出てきた様に、明るくなった。六十年余、内に込めていたことを吐き出したからであろう。

二〇〇八年、日本移民ブラジル移住百周年記念式典が、東京から皇太子殿下(令和天皇)の臨席を得て開催された。

その時、共同通信の名波正晴記者(リオ駐在)たちの計らいで、蒸野は式典に参加、殿下の近くの席に座ることができた。

蒸野は、殿下を合掌して拝んでいた。

「なんと言ったらいいのか、ありがたくて、ありがたくて、涙が止まりませんでした…」

後日、聞いた言葉である。

翌二〇〇九年没。九十歳。

日高は(最後の日本人が逝った)と思ったという。

三岳久松は、DOPSから拘置所へ移され、ここに長く居った。やがて裁判があり十二年の刑を受けた。が、山下と同様、刑務所には送られず、そのまま拘置所に居た。共犯の蒸野三蔵も、同じだった。

三岳はここで絵の勉強をした。彼も刑期より相当早く出所したが、その後も働きながら絵の勉強を続け、画家になった。

事件のことで、周囲から冷たく扱われた経験はない。

以下は、他のグループの人々のその後である。

ツッパンの一人一殺事件の加藤幸平は、前記の押岩談によれば、裁判はツッパンで受けたことになっている。

しかしイツコ夫人の話だと、サンパウロの中央裁判所で判決を受けたという。刑期は三十年だった。

事件時、相手の胸部を三発撃っただけでなく、さらに後ろの首筋にトドメの一発を撃ち込んだことで、殺意があったと見做され刑期が長くなった。

カランジール刑務所で服役した。

服役中は模範囚で、毎日三〇分の外出が許された。ポルトンの側まで行くと、番人が黙って開けてくれた。

八年で仮釈となった。

刑務所では彼も絵を習い、出所後は画家として生活した。

仕事はこなしきれないほどあった。主に肖像画だった。

子供の教育が終わったら、本物の絵を描く、と言っていた。

子供は男の子が六人生まれた。

幸平の死については既に触れたが、五十六歳の若さだった。外出先で心臓麻痺で逝った。

以後、遺族の生活の苦労が始まった。子供たちは学校を夜の部にかえて働き始めた。

四男は、静岡県の県費留学生となり、日本で就職、コンピューターを輸出する貿易会社の社長になった。

夫人は夫の死後、詩吟や詩舞を習った。その思想や行動を理解するために、日本的なモノを知りたかったからである。

後に日本の宗家から免状を受け、指導者になった。

夫人談。

「加藤の父も加藤も(ある時期からは)戦争が負けたことは判っていました。お仲間の戦勝派の人たちも同じでした。けれど負けた、負けたとワザと言う必要はない…と。

日本を悪し様に言うのは許せない、勝ち負けの問題ではない、ということでした。

私は、日本は負けたことになっているが、勝ったと思っています。原爆使用や都市の無差別爆撃は、ルール違反。米国の負けです。

日本の国民は、未だ天皇陛下を崇め、大切にしてくれている。有難い、うれしい。

加藤は人間としての奥行きが深かった。転居する先々で日本語学校の父兄会長に選ばれました。

ソグロの加藤美作は面白い人でした。

自分は村一番の美男、女房は二番と下らぬ美女だったと言っていました。私が、その割には幸平は一寸落ちますね、と言うと、一寸どころか、ぐっと落ちる、と。大笑いしました」(つづく)


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