開拓当時の苦闘物語(3)=サンパウロ 吉田しのぶ
独立して我が土地となり、二人で建てたサッペ小屋が完成した。ようやく一家の主となったのである。その喜びは何物にも代えがたく、未来への夢と希望が膨らんだ。まだ20代の若さであった、まず家を建てるにあたって山から切り出した生木を家の四柱に使った。
乾かして使うなど悠長なことはいっておられない。まず生木の四つ柱を土に埋め込み、竹を小さく切って格子編みにして、泥土にサッペを刻んで練り込み団子にまるめて壁に塗り付けるのであるが、自分たちの住む家と思えばこの重労働もなんのその、完成に近づくにつれて闘志が湧き喜びもひとしおであった。瓦の代わりにサッペ屋根を葺いて家が完成した。
だが、一か月もたたないうちに生木を使ったものだから柱が根付いて芽を吹きだした。これにはびっくりで、この吹き出した芽を使わない手はない。上手に切り込んで、ハンガー代わりに作業着やものを引っ掛けて重宝した。
家が出来てつぎは厠作りである、土に穴を掘って丸太棒を渡し。サッペで囲んだだけの厠ですき間だらけである。あるとき用を足していたらサッペのすき間から蛇がにょきにょきと入り込んできた。悲鳴を上げ、出すものも出ずズボンを引き上げて飛び出した。悲鳴を聞きつけて夫が駆け付け、一打に始末したけれどとにかく蛇の多い土地柄で、油断も隙もなかった。
ある夜などは石油ランプの生活からガスランプに替えて間もなくガスのプチジョンに鈴蛇は尻尾を打ち付けてチリチリと鳴らす音に目が覚めた。家の中にまで毒蛇が入りこんだ。主人がすぐに始末したけれど、我が家で飼っていた愛犬がどれだけ毒蛇の在りかを知らせてくれたことか、愛犬が吠え立てるところには必ず毒蛇がいた。
私達の植民地の中に一世の方で、毒蛇を捕獲してそれを生きたままブタンタンに送る仕事を生業とする人がいた。その人は何十匹もの蛇を箱に入れてベッドの下に置いていたとか、あるときこの植民地に大事件が起こった。この捕獲した毒蛇が不注意で箱から逃げ出したのである。さあ大変、村中の人たちが総出で蛇の捕獲に当たった。村の人たちはこの人から血清注射の液を貰っていたから、他人事ではなかった。ポンテ、アルタという植民地で道路沿いに20軒は建ち並んだ区域であったので、周りの畑、家の庭先などくまなく探し回って大方は捕獲することが出来た。子供たちは泣き叫ぶやら大騒動であった。これも懐かしい思い出である。
夫はブラジルに移住する前の四年間、農業実習生として北米のカリフォルニア州に研修生として派遣されていた。その時の同期生が、ブラジルに商用で行くから是非会いたいとの知らせを受けた。こんな開拓の掘っ建て小屋に来て頂いても寝るところもない。それでも来るという。雨露だけしのげたらそれでよい、そこで寝るから心配するな。でもこんな掘っ建て小屋をみたら本人はびっくりするだろうなあと心配していたけれど、心配するどころか「えらい君の開拓魂を見せつけられた」と称賛の一言を贈ってくれた。
作業小屋の土間に茣蓙を敷いてそこに日本から持ってきた敷布団を敷き毛布をかけて休んでもらった。夏の暑い盛りで、香取線香を焚いて蚊の襲来を防いだが、一睡もできなかったようである。お土産に魚の干物、昆布、佃煮など頂いたが、本人は一口も口にせず、私の作った野菜の煮つけなど旨い旨いといって食べてくれた。