ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(263)
ところで、円売りであるが、これは前章で記したが、戦時中から起きていたということになっている。
戦後も含めて、ここで検証しておく。
まず前章で先送りした大宅壮一の記事中の「百円札…云々」の部分である。
戦争末期、ユダヤ商人が上海、香港から百円札を大量にブラジルに持ち込み、日本移民に売って大儲けしたという説には、次の様な難点がある。
これは戦時中の話であり、当時、日本人の銀行預金は、法人も自然人も資産凍結令の対象になっていた。厳重に使途を監査され、最低必要額しか引き出すことができなかった。(九章参照)
そういう状況下、大量の百円紙幣を持ち込んでも捌ける見込みは立たない。従ってユダヤ商人が世界大戦という危険な情勢下、地球を半周するほど遠いブラジルまで運ぶ筈はない。
それと、実は円買いは戦前から禁止されていた。
それは以下の様な経緯による。
一九三〇年代末、支那に円が大量に存在、相場が暴落したため、それが第三国へ流れた。その流れは為替業者を通じていた筈である。
この円を世界各地で、日本への旅行者や帰国者が買って持ち込み、問題化した。
ために日本の外務省が、在外公館を通じて警告を発している。
サンパウロでも、一九三九年三月二十四日の聖州新報が「円紙幣の流出は為替政策の大障害」という見出しで、円の売買に対する総領事館の警告を記事にした。
同年七月七日、再び「母国より又も訓電」「円を買うな」「日本到着時、総領事館の証明以外は没収される」という見出しで同主旨のことを報じている。
ということは、支那からの円が幾らかはブラジルにも流入、売買されていたことを意味する。
しかし、これで判る様に、一九三九年時点で「円を買うな」と総領事館から警告が出ているのである。
そういう状況の中で、円を買おうとする邦人が多く居たろうか?
当時の━━一部を除く━━移民の真面目な気質、祖国への忠誠心からすれば、居ても極少であったろう。
以上の二点から判断して、大宅の記事の内容は現実感が伴わない。
ただ、こういうことは考えられる。
前記の戦前、支那から流入した円が、思うように捌けず、為替業者は辟易していた。
戦争末期、日本の敗色が濃厚となり、円は市場で一段と値下がりした。
為替業者が焦って、日本人の誰か…例えば川崎三造の様な人間に頼み…その誰かが、邦人集団地を回って言葉巧みに売り込んだ━━。
しかし、売れたとしても、たいした額ではなかったろう。
これは、被害者が現れていないことからも判る。
右は終戦までのことである。
戦後に関して言えば、右記の円が売れ残って、為替業者の手に、そのままになっていた。買ってくれる人が居れば、捨て値でも売りたかったであろう。
一方で邦人の大部分が戦勝を信じるという状況が生まれていた。
戦勝を信じた人々の第一の望みは日本への帰国であり、その場合、まず必要になるのは円である。
これに目を付けた人間が為替業者から極安で仕入れ、安く売れば、買う人間も現れよう。この場合の売り込み先は、新円切り替え後は、そのことも極安で買えることも知らない人間が狙われた筈である。
総領事館の警告も、すでに七、八年前のことであり、その館も閉鎖していた。戦争も終わり情勢は変わっているとごまかすこともできたであろう。
終戦後の円売りは、この種のものであったろう。
因みに水本は戦前、小さな為替業を営んでいた時期がある。
ほかにも売った人間が居たようだ。が、明確な話としては伝わっていない。(つづく)