ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(275)
以下は、既述したことと重なる部分もあるが、川崎はしばしば警察の厄介になり、新聞に詐欺師として登場した。
ところが、警察の追及をスルリスルリとすり抜け、アチコチの邦人集団地に現れて、人を集め講演をして歩いた。
落ち着いた態度と見事な弁舌で聴衆を魅了し「川崎先生」と呼ばれていた━━というから驚く。
実際、その講演を聞いた人によると「話はウマカッタ!」そうである。
講演の内容は、日本戦勝説に基づく熱烈な愛国論、帰国論であった。無論、聴衆は戦勝派の人々だった。
ニセ宮騒動の表面化時、五十歳。
加藤と川崎が知り合ったのは、一九四八年ということになっている。
その翌年、コロニアで第一回訪日団なるものが企画された。東京まで、初めて飛行機を乗り継いで行くという企画だった。
加藤は、その団員八人の内の一人となり、日本へ向かった。経費は、貿易商を始めると言って、人から借りていた。
日本から戻ってきた時は、白い将校服を着、皮のベルトを肩から斜めにかけ、双眼鏡を入れたバックを腰に吊し、飛行機から降りてきた。
恩賜の煙草を大量に持参、会う人ごとに一本ずつ配った。
すべて闇市で仕入れたものらしかったが、本人は然るべき処から贈られた…あるいは下賜された如く吹聴していた。
二年後、また訪日。この時は二番目の妻キヨを連れて戻った。
キヨは仙台の住人であった。三十代も後半という年令で、持参金付きで加藤と一緒になっていた。
夫婦は、その金でシッポーに、ほぼ五十㌶の土地を買った。開墾して農園をつくる予定だった。
同時期、川崎はサンパウロ、パラナ両州の邦人集団地に現れ、講演をして歩いていた。その話に魅了され同志になる人間がいた。
その川崎や同志の口から、一つの秘密めいたニュースが流された。
「日本から高貴な方が、ブラジルに来ておられるそうだ」
「移民を日本に迎えるための、天皇陛下の特使らしい」
「皇族の朝香宮ということだ」
「有難いことだ。宮様の諸費用を献上しよう」
「宮様は、日本の船が在伯同胞を迎えに来るまで、正しい日本人をつくるための修養農園を拓くそうだ。そこに入って修養しよう」
この朝香宮というのが、加藤拓治であった。
ただし加藤自身が、そう明言したわけではない。川崎やその仲間たちが、
「加藤が、その宮様の仮の姿である」
と人に思い込ませるように巧妙に話した。
一九五二年十一月、シッポーの土地の開墾が始まった。
加藤は、ここをシッチオ・キヨ=キヨ農園=と名づけた。
同年末から翌年にかけてバストス、モジ・ダス・クルーゼス、ノロエステ線、パウリスタ線、ソロカバナ線、その他から次々と入園者があった。
川崎たちが送り込んだのである。(つづく)









