ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(277)
その講師が川崎三造であった。後で、川崎を紹介され、天皇陛下の特使がブラジルに来ていることを告げられ、これを信じた。
集会では、多くの人が川崎に、愛国運動資金として醵金するのを見た。
以後、川崎のモジ代理人の中山潔や佐藤直作と付きあった。
そのうち、有家の所に、漆畑が訪ねてきて、シッポーの農園に入るよう勧誘した。それを有家は受けた━━。
偽宮騒動 ➃
話を、一九五四年一月四日のDOPSの農園急襲の直後に戻す。
加藤は逐電後、心当たりの弁護士を、手当たり次第に訪ねて、助けを求めていた。
一月九日。早朝から知人宅へ行って窮状を訴え、助力を乞うたり、日本総領事の公邸を訪ねて追い払われたり、何の関係もないコチア産組専務の下元健吉の所へ駆け込んだりしていた。
下元にはコッテリと油を絞られ、理事の井上ゼルヴァジオ付添いのもと、DOPSへ出頭させられた。身柄は拘束された。
一方、川崎は…この男も妻子の他に愛人が居って、そちらに逃げ込んでいた。
川崎は加藤の出頭を知ると、挙動が全く常人とは異なってしまった。
愛人の方は割合シッカリしていたようで、警察に行くよう川崎を説得した。
川崎、十七日、DOPSへ出頭。同じく身柄拘束。
以後、DOPSの取調べや記者独自の取材に基づくニュースが、次々と新聞に載った。
いずれも読者を驚倒させた。
シッチオ・キヨの入植者たちは、自分たちの動産、不動産を宮様こと加藤に献上、日本へ帰る日を楽しみにしていた。
無給であっただけでなく、毎月、農園維持費の名目で献金を要求されていた。計七〇コントが巻き上げられていた。(一コント=一、〇〇〇クルゼイロ。ただしコントは、この頃は通称)
額の多少はあったが、皆、被害を受けていた。
支配人の島崎は、農園入りの前から「川崎先生」に献金を渡しており、農園での分を合わせると、被害額は二〇〇コントに達していた。普通の市民の生活費が、月に数コントという時代である。
このほか加藤・川崎は各地で多数の信者を騙していた。
例えば、次の様な具合であった。
モジの道音忠行の場合。━━
加藤と一九五三年初め、知り合った。紹介者は川崎三造で、加藤を高貴な人だと言っていた。宮様の御殿の維持費を出せ、といわれて二〇〇コントを加藤に、二五〇コントを川崎に渡した。
道音は邦字紙記者にこう嘆いた。
「スッカリ騙されていました。七年間、家族中で働いて得た金をふいにしました」
道音の母親によると、加藤・川崎は、
「日本をロシアの脅威から護るためだ」
と言って帰国運動をしており、川崎は、
「総てを秘密にせよ」
と要求していた。
同じくモジの千葉四郎の場合は、
「川崎が、人を集めて戦勝論・帰国論を唱えた。ブラジルに宮様が来ておるからと言って、その方のお守り費用として五コント献納させられ、会合の秘密を守るという署名を強要され、した」
という。(つづく)









