ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(329)
目に付く変事
そのほか七〇年代に起きた目に付く変事を、当時の資料類から拾っておく。
一九七三年一月、ヤクルトの社員が、ロンドリーナ郊外のゴルフの練習場で、数人の子供(非日系)を拳銃で狙撃、一人が死亡、一人が負傷した。
子供たちは、その社員が打った球を拾って逃げようとしたという。
社員は、日本からの派遣員だった。
この事件は、コロニアに衝撃を与えた。
コロニアには、どこの進出企業の派遣員も、日頃からお高く留まっているという不快感があり、それが一挙に爆発、一時は騒然としたものである。
一九七九年五月。
北伯パラー州の小さな町コンセイソン・ド・アラグアイアで、二人の日本人が、サンパウロから来た刑事たちに射殺された。
長崎正泰、小谷良樹といい、前年、愛知県で起きた保険金目当ての連続殺人事件の犯人であった。(二人の姓名のうち名は、別の文字を使用する資料もある)
彼らは豊橋市で運送業を営んでいた。が、石油ショックで、ヤリクリが苦しくなり、追い詰められた。
窮して保険金詐欺を企み、従業員を水死、取引先の食品業者を事故死、親しくしていたバーのママさんを火災死──と見せかけて殺し、保険金四億円強を手に入れた。
しかし警察が動き始めたことに気づき、二億以上の現金を持って国外へ逃亡、台湾、パラグアイ、ブラジルと転々としていた。
この長崎・小谷事件は、当時の日本では、センセーショナルに報道されていた。
日本外務省が、二人が南米に潜伏中であることを公表した。
同外務省の依頼を受けたサンパウロ州警察の捜査で、二人が日系のホテルを転々としていたことが判明。DOPSが捜査を担当した。
やがてパラー州の前記の町に潜伏中であるという情報を入手、刑事たちが現地へ飛んだ。
それには、何故か、日本のあるテレビ局の取材者とサンパウロ新聞の記者が同行していた。
現場での状況は、サンパウロ新聞で、何枚もの写真入りで大きく報道された。が、何故か内容は要領を得ないものであった。
刑事たちが、二人が居る家に近づいて行き、いきなり一斉射撃をし、二人は死んだ…という程度のことしか読み取れなかった。
また、別の資料によれば、二人の死亡時、刑事たちは自殺と発表したが、ベレンの法医院は「自殺ではない」と判定したという。
この法医院というのが分かり難いが、法的な検死をする機関であろう。
ここで重要なことが二つあった。
DOPSの刑事たちが、逮捕する手間を省いて、いきなり銃撃して死なしてしまったこと、そして二人が所持していた筈の大金がどうなったか、報じられなかったことである。
数日後、一つの情報がサンパウロの邦人社会にパッと広まった。
長崎・小谷を追ってパラーへ向かう前、DOPSの刑事たちがサンパウロ新聞の水本光任社長を訪ね、
「二人の潜伏場所が判ったが、遠くて出張経費が無い。なんとかならないか?」
と相談を持ちかけた。
水本はその話を、日本から長崎・小谷を追ってきたあるテレビ局の取材者に繋いだ。取材者は本社に連絡、資金を用意した──。
そういう経緯があって、刑事たちとテレビ局の取材者、サンパウロ新聞記者が、一緒に現地に向かったのである。
以下は、前記の「邦人社会にパッと広まった」情報の他の部分であり、ずっと後年、ニッケイ新聞かブラジル日報の紙面で記事になった、と筆者は記憶するが。──
刑事たちが長崎・小谷を射殺しての帰途、サンパウロ新聞の記者に、
「余計なことを書くな。書いたら、お前の死体がチエテ河に浮かぶゾ」
と脅したというのである。
これで、巷間、
「刑事たちの目的は、初めから二人が所持していた大金にあり、逮捕ではなかったのではないか?」
という疑惑が囁かれる様になった。
事件当時、筆者はサンパウロ新聞を辞めていたため、この件に関わることは無かった。が、前記の情報は耳に入っていた。相当広く伝わっているという感じだった。
重要なことは、日本政府側が、この余りにも不自然で疑惑の強い事件を、そのままにしてしまったことである。調査くらいはしたかもしれないが、結果は公表されていない。
一九七九年九月、JICAが、今年の移民は上半期だけで四四人と発表した。
日本からの移住は、事実上、この七〇年代で終了した。笠戸丸以来七十一年目であった。
同年十一月、サンパウロ州南端部、大西洋岸のペドロ・デ・トレードという田舎町に住む邦人三家族一四人が、日本の国援法の適用を受けて、帰国した。
彼らは、戦後二十八年間、祖国の戦勝を信じ続け〝鎖国村〟をつくり、外部との連絡を絶って暮らしてきた。報国同志会と名乗っていたという。
そういう人間が未だ居たというのは驚きである。
ただ、国援法の適用を受けたということは、相当貧しく暮らしていたことを意味する。(つづく)









