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芸術フットボールを追い求めて=沢田啓明=第18回=リスボンの夜を凍らせた南米160年の怨嗟

2026年3月10日

2018年、ユヴェントスとの親善試合に出場したヴィニシウス(All-Pro Reels, via Wikimedia Commons)
2018年、ユヴェントスとの親善試合に出場したヴィニシウス(All-Pro Reels, via Wikimedia Commons)

 事件の舞台は2月17日、リスボンの夜。欧州チャンピオンズ・リーグ、ラウンド32。ベンフィカ対レアル・マドリー戦の後半開始直後の出来事だった。

 ブラジル代表FWヴィニシウス(レアル・マドリー)が会心の先制弾に歓喜の咆哮を上げていたその時、ベンフィカの小柄なアルゼンチン人、ジャンルカ・プレスティアーニが歩み寄り、冷徹な一言を投げかけた。その刹那、ヴィニシウスの表情は憤怒に染まり、主審へと詰め寄ってこう告発した。「お前はサルだ、と罵られた。人種差別行為だ」と。

 両軍の選手がヴィニシウスとプレスティアーニを包囲してもみ合い、ピッチの熱狂は数分間にわたって凍りついた。

 試合後、レアルのフランス代表FWキリアン・エムバペは、「背番号25(プレスティアーニ)が、執拗に5回その言葉を吐くのをこの耳で聞いた」と証言台に立った。

 渦中のプレスティアーニは「断じて言っていない。間違って解釈された」と身の潔白を主張した。しかし、発言の瞬間にユニフォームの襟を吊り上げ、読唇術を阻むかのように口元を覆ったその仕草は、自らの言辞を闇に葬ろうとする狡知を感じさせた。

 欧州サッカー連盟(UEFA)は、このアルゼンチン人選手に暫定的な出場停止処分を下し、現在、事の真相を究明すべく精緻な調査を進めている。

 ポルトガルの地で起きたこの衝突は、当事者がブラジルとアルゼンチンの至宝であったがゆえに、両国の国境を越えた巨大な論争へと火をつけた。

 ブラジル国民にとって、ヴィニシウスに放たれた(とされる)罵声がアルゼンチン人の口から出たという事実には、看過できない歴史的背景がある。南米フットボール界に君臨する両雄のライバル関係の深層には、常に人種差別という名の「澱(おり)」が沈殿しているからだ。

 1914年のセレソン(ブラジル代表)創設期、大陸の覇権を握っていたのはアルゼンチンとウルグアイの二強であった。後塵を拝していたブラジルが両国に遠征するたび、ピッチの選手たちは地元観衆から「マカキットス(サル)」という卑劣な罵声に晒されてきた。その呪詛は、今なおスタジアムの片隅に生き続けている。

 この蔑称の起源は、1864年に勃発した凄惨な「パラグアイ戦争」まで遡る。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟がパラグアイを壊滅させた領土戦争において、ブラジル軍の主力を担ったのは黒人兵士たちであった。

 戦勝の美酒の裏で、白人主体のアルゼンチンやウルグアイの兵士たちは、黒人兵たちを「サル」と呼び蔑んだ。その差別構造が時空を超え、現代のフットボールという戦場において反復されているのである。

 ブラジル・フットボールの隆盛は、黒人や混血の選手たちが持ち込んだ野生的な身体能力と、既成概念を打ち破る創造性の結晶であった。1950年代半ばに「王様」ペレという不世出の天才が降臨し、三度のワールドカップ制覇を成し遂げたことで、ブラジル社会における黒人の地位は歴史的な転換点を迎えた。

 対照的に、アルゼンチンの地からは黒人の姿が消えていった。それは、19世紀初頭の独立戦争や、件のパラグアイ戦争において黒人層が過酷な前線へ投入され、消耗品のように命を落としていったという悲劇的史実に基づいている。

 イタリア系をはじめとする欧州系移民を祖に持つ「白人国家」としての自負は、時に他者への選民意識へと歪み、それが隣国の黒人選手への蔑視となって噴出する。プレスティアーニが放ったとされる「サル」という言葉に、ブラジル人が「いつものデジャヴ」を感じるのはそのためだ。

 しかし、プレスティアーニ本人は疑惑を完膚なきまでに否定しており、アルゼンチン国内では「ヴィニシウスによる被害妄想、あるいは卑劣な捏造だ」と断じる声が大勢を占める。さらにアルゼンチン人サポーターは、「ブラジルのスタジアムでは、我々こそが暴徒や警察による理不尽な暴力の犠牲者だ」と、鏡合わせの憎悪で応酬する。

 結局のところ、両国の実力が拮抗し、互いに世界の頂を争う絶対的な存在であるがゆえに、この苛烈なライバル意識は研ぎ澄まされてきたのだ。

 フットボールの歴史において、宿敵の存在は互いの魂を刺激し、競技レベルを極限まで引き上げる触媒となってきた。ライバル関係そのものは、決して悪徳ではない。だが、その情熱の火を、差別や暴力という名の「毒」で汚してはならないことは、もはや論を俟たない。


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