モジを「ラーメンの町」に!=ブームで日本製製麺機フル稼働(下)

プロポリスとの出会いは移住してきた63年前
「夢なき人生は無に等しい」との想いから、松田さんは86歳の今も伯ブラジルに到来したラーメンブームの渦中で「モジ市をラーメンの町に」と新たな目標に向かう。ラーメン事業が好調なのは、MNプロポリス社の原点である養蜂製品の製造販売が順調というのもある。
1960年3月にブラジル丸で移住した松田さんは、日本有数の東大進学者数を誇る群馬県立前橋高校(1877年創立)を卒業し、大学は工学部に進学した。「人生は1mか2mの棒のようなもの。その間に何ができるか試したかった」と、23歳の時にたったカバン二つで移住した。「高校は今も典型的な上州男の集まる男子校」で、同校からブラジルに移住したのは一人の先輩を含めて2人のみだという。
農業移民として最初の2年間は養鶏業に従事した。そこの主人がどこか奥地に行っては「これは喉の不調や風邪予防に効く」と瓶を持ち帰っていたのがプロポリスとの出会いだった。その後、20年は会社勤めをして待遇も良かったが、ブラジルまで来た「男のロマン」を捨て去れず、1982年から本格的にプロポリスの研究、調査を始め、1992年にMNプロポリス社を設立した。

品質と信頼の「MN」ブランドの地位を確立したのは、55年間連れ添ってきた日系2世の妻春子さん(81歳)の内助の功も大きい。春子さんは原子力科学の学位をブラジルで初取得したサンパウロ大学の総合研究者だ。
彼女が責任者となって、同社の食品分析センターを運営する。ここは中小企業としては世界最大規模であり、日本製の機械を使って成分分析を行って顧客に常に正確なデータを伝えると同時に、同社製品の品質を保ってきた。
ブラジルへの移民は片道切符だった
松田さんがこれまでの人生でもっとも良かったと思うことは、故稲盛和夫氏の教えとの出会いだ。「稲盛哲学がなければ今日の自分はなかった」と言い切る。「会社にはフィロソフィーが必要。経営はお金儲けが目的ではいけない。謙虚にしておごらず、利他の精神が重要」と今も自分に言い聞かせる。
これまで日本などで様々な講演会に招かれて登壇すると、いつも聞かれるのは「どうしてブラジルに行ったか?」ということだった。米国やメキシコへの移住は、いざとなれば日本に帰れる環境であったが、ブラジルは異なった。「伯国は遠い。ここへの移民は片道切符だから、おのずと意気込み、生き方も違った」と10分ぐらい説明をすると、皆が納得して拍手を送ったという。

さらに、日本の盛和塾では約60%が二代目以降の世襲者、米国でも二代目がいた。しかし、ブラジルは皆、創業者だった。「稲盛さんはブラジル移民の精神が好きだった」と松田さんは振り返り、敬慕する師の名前から1文字を取った「盛」の文字が、MNラーメン店の正面で黄金色に輝いている。
85歳までの人生計画だったはずが既に1年以上伸び、今は90歳までに何を残すかを考える。松田さんは「人生では三つの良いことをすると神様に来いと言われる」と、これまで憩の園への支援や日本人移民100周年にはモジ市内の公園に鳥居の寄贈などを行ってきた。「あと一つ、世のために何か良いことをしたい」というのが人生のラストスパートを走る松田さんの今一番の願いだ。(終/取材:大浦智子)