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《記者コラム》マツリダンスはどう生まれたか?=相川七瀬を惹きつけた魅力とは=日本文化若者継承への挑戦

2025年9月16日


文協ではなくカラオケ教室から始まった組織


ブラジルでサンパウロ州に次いで日系人が多い北パラナ地域は、実に不思議な地域だ。日本からブラジルに移住してきたのは農家次男、三男の家族が多かった。それが戦前に〝移民の故郷〟サンパウロ州ノロエステ地方を中心に、パウリスタ、奥ソロカバナ、モジアナ、レジストロ地方などに定着した。

それぞれの地方で開拓が終わって新開地がなくなると、その地方で生まれ育った2世である長男はその地に残ってブラジル本家を作り、次男、三男らは新しい開拓地を求めて終戦直後に北パラナへ向かい、生活に余裕が生まれた後の末子はサンパウロ市に進学してサンパウロ大学などの有名大学へ入学した。

歌と踊り、生バンド、和太鼓が一体となったマツリダンスのステージの様子
歌と踊り、生バンド、和太鼓が一体となったマツリダンスのステージの様子

その結果、北パラナのアサイやウライ、ロンドリーナからマリンガなどの地域には、すごい数の日系コロニアが作られ、現在でも約70日系団体が活動を続ける。全伯430日系団体の16%、6団体に一つはパラナだ。全伯の日系集団地では「文協」と言われる形の組織を作り、70年代に最盛期を迎えて、以後ゆっくりとメンバーが2世化して日本語離れすると同時に組織が高齢化して、衰退化する傾向がある。新しく加わってくれる若者のメンバーが少ないからだ。

ところが、その中で最初から若者中心に創立して活動を拡大して最も成功をしている日系団体の一つがロンドリーナのグルッポ・サンセイ(城間ミチ代表)ではないかと思う。いわゆる「文協」組織ではなく、もともとカラオケ教室から拡大発展したという意味でも、それまでの日系団体とは一線を画している。


移民80周年で生まれたグルッポ・サンセイ


グルッポ・サンセイは1988年に日本移民80周年を機に、北パラナに定着した2世家族の子供世代、20代の3世層20人で発足した。10年後の1998年の移民90周年ではカラオケ・ミュージカル移民劇「サーガ・ドス・イミグランテス」を開始し、同グループ15周年を記念して2003年に祭りダンスをメインとしたロンドリーナ祭りを開始した。

相川七瀬を特別ゲストに迎えて5〜7日まで開催された「第21回ロンドリーナ祭り」では、延べ約3万人を動員した。広報によれば、主催者の当初見込み2万7千人を上回る盛況となり、経済効果は600万レアル(1億7千万円)に達したというからすごい。それを若者を中心とした180人のグループが実行している。

各地の文協はもちろん、県人会でも「どうやったら若者に日本文化を継承できるのか?」「どう若者を日系活動に惹きつけたらいいのか?」などに、日々頭を悩ませているリーダーは多い。

相川七瀬の来伯を機に、久しぶりにグルッポ・サンセイが主催するロンドリーナ祭りを取材したおり、ミチさん(62歳、3世)に同グループの歴史を振り返ってもらった。きっとグルッポ・サンセイの経験やたどってきた道は、良いインピレーションを与えるのではないか。


満面に笑みを浮かべるミチさん
満面に笑みを浮かべるミチさん

どう日本文化を広め、若者を惹きつけるか?


「従来の文協組織とは異なる形で、若者を惹きつける秘訣はなんですか?」と単刀直入に質問すると、ミチさんは「どうやって日本文化に若者の関心を集めるか。どうやって青年リーダーを育てるか。いつもそれを考えています。それには、できるだけ若者の言葉を聞いて、彼らが何をやりたいかに寄り添うことが大切なんです」と答えた。確かに、若者の声を聞かずに、彼らの考えていることはわからない。

ミチさんは「移民80周年の1988年、20人でグルッポ・サンセイを創立した時、私もまだ24歳でした。同年代の仲間と話し合いながら、どうやったら日本移民の歴史や文化を継承できるか、広められるかを常に考えてきました。その結果が、今の活動になっています」と振り返る。

元々彼女はカラオケ大会チャンピオンで、カラオケ教室を開き、生徒に教えていた。その流れで1998年に移民90周年の際、若者による「自分たちに何ができるか」という話し合いの中から、笠戸丸からの移民史をその時代の歌と寸劇を組み合わせてカラオケミュージカル劇をするアイデアが生まれた。

カラオケは個人で歌って得点や順位を競うものだが、一緒にミュージカルを演ずることでライバル関係から共演者に変わっていった。実際にそれを始めると各地の文協から上演依頼が舞い込み、好評を博した。

「劇の背景や大道具小道具を作ったり、ショーを組み立てていく経験を学びました。グルッポの活動には、参加者の両親の協力が不可欠でした。両親が最初の理解者となって、より広がりを持った活動になっていきました」という。

私も実際に見たが、それまで別々だったカラオケと移民史が組み合わさることで、相乗効果が生まれ、聞き慣れた日本の曲と共に、移民史が観客の頭にすんなり入っていくことを実感した。とても良いアイデアだ。

その勢いに乗って、「ブラジルでは女の子が15歳を迎えるときに社交会、社会にデビューするfesta de debutante(デビュタント・パーティー)を開く伝統があります。だから、私たちもグルッポ・サンセイ15周年で何か始めよう」と話し合っているときに、ロンドリーナ祭りのアイデアが生まれた。「デビュー・パーティだから誰でも参加できる公共の場所としてニシノミヤ公園で始まりました。そして祭りに若い人を呼ぶためのアトラクションが必要であり、そこでマツリダンスが考えだされた。『盆踊り』はご先祖様の供養が中心ですが、それだけではブラジルのフェスタにそぐわないところがあります。もっとエンターテイメントの要素を強めるにはどうしたらいいか、考えました。そこで生まれたのがフェスタの踊り、『マツリダンス』です」というところが若者らしい発想だ。


一斉にマツリダンスを踊る様子
一斉にマツリダンスを踊る様子

自分たちが得意な芸能を全て組み合わせて


「すでにマリンガ文協の青年部では、『盆踊りジョーベンス』をやっていました。普通の盆踊りでは飽き足りない若者たちが、踊り自体は盆踊っぽい感じですが、音楽をJpopにするというアイデアでした。私たちも交流の中でそれを知っていたので、じゃあ、もっと若者が好きなスタイルの踊りにして、私たちの得意な生バンドの演奏で歌って、和太鼓も入れようとなり、現在のスタイルになりました。つまり『マツリダンス』を強烈な印象で打ち出すために、それまで私たちが培って来た芸能、技能を全てそこに集中させたのです」

「最初はマリンガから持ってきた『ギザギザハートの子守唄』を始め、私たちが振り付けた『島唄』など、わずか5曲でした。とても控えめな始まりです。でも、盆踊りからマツリダンスに切り替わった途端、会場の若者がみんな舞台前に集まって強烈に踊り始めました。その姿を見て、『これだ! これが私たちの未来だ!』と強く感じたのです。そこから始まりました」と思い出す。

「毎年毎年マツリダンスの新しいレパートリーを発表して増やし、今では40曲ほどもあります。でも現在、演奏されるのはその中で反応が良かった25曲のみ。これは有名な歌手だからで残るのではなく、曲調やダンス、観客の反応など総合的に判断して選ばれます。その中で、相川七瀬さんの曲は5曲ともレパートリーに残っています」と語った。

盆踊りがマツリダンスのルーツであることを忘れないために、マツリダンスには3原則がある。「マツリダンスをやる前に必ず盆踊りもやること」「盆踊りの振り付けを必ず一つは組み入れること」「Jpopを使うこと」。

グルッポ・サンセイは2000年代にはブラジルYosakoiソーラン大会で5連覇を飾るなど、踊りや音楽の分野で強い存在感を放ち続けている。

ニッケイ新聞では2004年の第2回祭りから報じ始め、第3回祭りでは2005年9月21日付《マツリダンスに熱狂=新日系文化、1万人が踊る=ロンドリーナ》記事の中で、《三夜とも午後八時に始まった祭りの目玉マツリダンスで会場の盛り上がりは最高潮に達し、一万二千人(地元警察発表)が一斉に踊った。〃新日系文化〃の継承と普及を独自の方法で進める日系の若者グループ・サンセイの力を見せつけるイベントとなった》(www.nikkeyshimbun.jp/2005/050921-72colonia.html)と報じていた。

記者が「5年後、10年後はどうなっていますか?」と質問すると、ミチさんは「私は将来的に100%、若者たちに全てを託したいと思っています。グルッポ・サンセイ30周年(2018年)の時に40周年(2028年)で皆さんにバトンを渡しますと宣言しました。それから7年かけて、徐々にこの祭りの運営を渡して来ました。すでに運営の60%は若者がやっています。若者たちに自分たちのスペースを作らないと、彼らが好きなように拡大させることができないから」と明言した。


日本にマツリダンスが逆輸入?


記者が「最近、日本ではJpopに合わせて今風のダンスで踊る形の盆踊りが、流行り始めているという日本からの報道に接しました。因果関係は不明ですが、まるでマツリダンスの存在が日本のテレビ番組などで報じられて、それに影響を受けて、日本でも同様の取り組みが始まったようにも見えます。実際、相川七瀬は8月3日、今回ブラジルに来る前にそのような盆踊り大会の一つ、中野駅前盆踊り大会に出演してマツリダンスを披露してきたといいます。彼女の曲は、ブラジルと日本の新しい盆踊りをつなぐ軸になっているのかもしれません。ミチさんはそれについてどう思いますか?」と尋ねたところ、こう答えた。

「素晴らしいですね。文化は交流です。常に時代に合わせて形を変え、革新していく。私たちが盆踊りからマツリダンスを発想したのは、日本文化に若者を惹きつけるためにどうしたらいいか、という必要性に駆られて考えた末です。それがうまくいきました。今はインターネットの時代ですが、自分たちがやっていることが、どこにどんな影響をもたらずか、全く分かりません。でも、もしも私たちがやっていることが、日本に多少なりとも影響をもたらすことができるのであれば、こんなに幸せなことはありません」と満面の笑みを浮かべた。

ブラジル各地で行われている盆踊りの最後に、マツリダンスを入れてみてはどうだろうか。グルッポ・サンセイは「マツリダンスをどのようにやるか」というワークショップを開催している。若者集めに苦心している団体は、問い合わせてみてはどうか。(深)


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