ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(344)
いずれも国際相場が基準になって価格が決まっていた。が、政府が為替レートを実勢より遥かに低く設定していたため、国内価格も、その分押さえ込まれていた。
ために、採算が取れなくなっていたのである。
特にカフェーは、一九八七年、国際市場で大暴落をした。前年対比で七〇㌫も下落した。もっとも、前年度は高過ぎたこともある。しかし、この大暴落で完全なコスト割れとなった。
凶事の三は、農業融資に関する極端な異変や奇怪事である。
極端な異変とは、政府が八七年、セラード開発の総合計画POLOCENTROの特別融資を打ち切ったことである。
セラード開発の初期の営農は、低利の特別融資があってこそ成り立つというのが実情だった。
従って、スタート二年目のバレイラスのリアシヨン・ダス・ネーベス営農団地などは、この打切りで、早くも崩れ始めた。入植中止や撤収が相次いだ。
八七年には、第二次プロデセールの入植も始まっていた。
が、既述の五州一五万㌶、十数組合の参加予定は大きく崩れた。
コチアのバイア州バレイラスのオウロ・ヴェルデ営農団地への入植も、三四人の予定に対し、一〇人余しか申込みがなかった。
もっとも、プロデセールは日伯合弁のプロジェクトであり、独自の融資も準備されていた。だから入植申込者は減っても一〇人余は居ったのである。ところが、その融資の実行が遅れた。
融資実行の遅延は、実は、八〇年の第一次プロデセールでも起きていた。(コチアの入植地はパラカツ)
さらに、その前の七四年のPADAP(サンゴタルド)でも…。これは既述したことである。
つまり約束された融資の実行が遅延するという奇怪事が、繰り返されていたのだ。
プロデセールの場合、その資金は日本から期限通り送金されていた。が、入植者へは、渡されなかった。
これは、後から判ったことであるが、サンゴタルドの場合と同様、融資を担当した政府系銀行が、その資金を流用、市場で利子稼ぎをしていたのである。盗用である。
プロデセールの推進機関CAMPOには、日本からの派遣役員がいたのに、こうであった。彼らは、その事情説明はしていない。
以上の様な凶事の多発で、バタタの場合と同様、組合員の組合に対する負債は焦げ付き、額も膨れ上がって行った。
かくして、コチアのセラード開発は壊滅的となり、それに伴って生じた財務上の負担が、組合に重くのしかかっていた。
なお、ここで、コチア以外のセラード開発に触れておく。──
凶事は、コチアに限らなかった。
第二次プロデセールではスール・ブラジルの場合、その入植地グァルダ・モール(一万㌶)に、八七年から八八年にかけて、三三人が入植した。
が、ここでも、融資の実行が遅れた。
専務理事だった笠原定尚の記憶では、遅延期間はハッキリ記憶していないが、その間、組合で銀行からホット・マネーを借りて繋いだ。ところが猛烈なインフレにより三、四カ月もすると、国内通貨クルザードで、元利合計は、借入額の倍になっていた。
しかも遅れて融資された資金は、契約時のクルザードだてのままであり、インフレ分、大きく目減りしていた。
この二つの差額は、誰が負担するのか? 入植組合員に負担できる筈はなかった。結局、そのまま組合の負債となって、狂騰金利で膨れ上がって行った。
スールのホット・マネーの借入金は、中沢前理事長死去の八四年末には六万㌦であった。が、このグァルダ・モールで、五〇〇万㌦を突破してしまった。
これが、組合の命取りになる。
話は飛ぶが、二〇一一年五月四日の産経新聞は、セラード開発に関する現地取材記事の中で、当時の農相補佐官の、次の様なコメントを紹介している。
「銀行の不正流用があったのは事実だ。だが、誰も責任をとらなかった」
筆者は当時スール・ブラジルの役員だった人に訊いてみた。
「プロデセールの融資は、どこの銀行を通じて、されたか?」
答えは、
「バンコ・ド・ブラジル」
だった。
「何故、遅延問題を告発しなかったのか!」
と、問い質す筆者に、
「相手はバンコ・ド・ブラジルだし、そんなことは…」
と、驚いた様に答えていた。
自分の組合を潰されているのに、こういうなさけなさである。
スールがバンコ・ド・ブラジルであれば、他の組合もそうであった筈だ。
「ジャポネースほど甘い獲物はない」とほくそ笑んでいたのは、巷の強盗だけではなかったであろう。(つづく)









