一九六〇年代になっても、この騒乱には邦字新聞も触れない、という空気があり、筆者は見送ったのである。
それから、さらに三十数年後、現地を訪れた折、地元の人にその記憶を話してみた。
答えは、次のようなものであった。
「そう、確かに内紛があって、二つに割れ対立していました。が、勝ち負け抗争が原因ではありません。対立は戦前からで、上塚派と反上塚派に割れていたのです。
原因は、上塚さんが、経済的に余裕のある人たちから金を借り歩いて、貧しい人々に配った。それを返済しなかった。貸した方に反上塚派が生まれ、上塚派と対立していました。それは一九六〇年代も続いていました」
上塚は一九三五年に没している。それから三十年経っても、内紛は続いていたことになる。
反上塚派は、上塚の評判や俳句に心打たれて遠くからやってきて入植したのに騙されたと失望し、怒ったのだ。
上塚の事績の中で、唯一これだけは認めざるを得まいと思われる八五低資にまで、ケチをつけた男がいる。 三浦鑿である。
三浦は、その頃は日伯新聞を手に入れ、自分で記事を書いていた。彼は反骨精神が旺盛な男で、紙面で日本の大使や総領事をブーロ(馬鹿者)呼ばわりし、面と向かって「木っ端役人」と罵倒し、館員たちをヴァガブンド(怠け者)と貶す男であった。
役人以外でも、気に食わぬ人間には、しばしば皮肉に満ちた言い回しで、紙面で毒づいた。その鋭鋒の被害者から
は蝮の様に嫌われたが、一方で、彼の反骨精神に喝采する読者も多かった。
そういう三浦から見ると、上塚など偽善者としか見えなかったのかもしれない。紙面でケチをつけ続けた。移民の父という呼称を皮肉タップリ使いつつ……。
八五低資の時は「生産者が窮地に陥ったのは、カフェー景気に煽られて、農地拡張のため過剰投資をしたのが原因」と批判を浴びせた。
上塚は八五低資の後、再度の融資請願運動を起こしたが、その時も三浦は、
「請願運動を起こしている連中が、経済的に困っているのは、景気が良い時にドンチャン騒ぎをしたツケが回ってきているのだ」
と、邪魔をした。そのせいかどうか……この二度目の誓願運動は実らず、上塚敬愛者の中の気の荒いのが、三浦を追いかけ回し拳銃をつきつけた。拳銃ではなくファッカだったという説もある。
こういう具合で、上塚周平はパイオニアたちの中では、二面性が最も濃厚な人物である。しかも、その生き様は極めて個性的であった。従弟の上塚司は、周平の生涯を「奇行に富んだ……」と形容している。
歴史的に見た場合、上塚がイタコロミー入りした一九一八年から二〇年代にかけて、邦人の植民地や小規模の入植地が、各地で多数造られている。
上塚の動きが、植民ブームを煽ったことにもよる。移民たちが、
「アノ上塚さんも、植民地を造って頑張っていなさるそうだ。ひとつワシらも……」
と、刺激されたのである。
アノ上塚さんも……と言っても、彼らの多くが、本人を直接知っていたわけではない。風が運ぶ上塚を装飾した噂や彼の俳句で、その人柄を想像していたに過ぎない。裏面は知らなかった。
ただし「移民の父」という敬称は、当時は上塚の周辺の敬愛者が使用していたに過ぎない。それが後世、一般化したのは、平野運平の「悲劇の主人公」と同様、風聞と想像が生んだ幻想である。今日それが、そのまま使われ続けているのは、錯誤である。