《特別寄稿》非日系が日系に、4世が3世に?!=日本国籍取得の裏技2パターン=聖市 山本剛介

現在では交通も便利になり、多少奥地の植民地にあっても、日本人の子供が出生して、日本国籍留保を希望すれば、3カ月以内であれば日本総領事館で出生届を受理され、日本国籍を取得することが出来ます。特に最近は多くの地方都市にも日系旅行社が進出していて、それらの手続きを代行しますから、わざわざ総領事館まで出向する必要もなく、場合によれば郵送も可能です。ところが1950年代までは、そういった手段もなく総領事館に届け出ることは大変難しいことでした。
そのためか、今ではあまり知られていない、これは旅行社のベテラン社員でも経験の少ない日本国籍取得の方法、「旧国籍法第5条」や「旧国籍法施行時の出生」など、それらの実例を分かりやすいように小説形式で以下のように書いてみた。その1とその2をご覧ください。
【日本国籍取得の裏技その1】
旧日本国国籍法第5条には《日本国籍者夫と1950年(昭和25年)6月30日までに婚姻した外国籍女性は、日本側に婚姻届けを届け出ることで、日本国籍を取得する》とある。
「川地勝也」は、1925年に9歳の時に移住してきました。両親と、兄夫妻もモイーニョ・ヴェーリョでバタタ(じゃがいも)栽培を行っていましたが、勝也は元来農業に興味がなく、町の学校に通いながら、早くから運転免許証を取得して、そのバタタ出荷の仕事に携わっていました。
当時町にはイタリア系のブラジル人マリアの家族が質素なイタリア料理店を営んでいました。このマリアは評判の美人でした。
川地勝也は当時の日本人としてはまれな180cmもの背丈のある青年でした。
マリアはまだ19歳でしたが、勝也とマリアは、終戦も落ち着き、1948年に結婚しました。そしてマリアは日本国籍を取得しました。
その後も勝也夫妻は町に住み、バタタ出荷の仕事から伝票作成の仕事に携わっていました。
1953年にはブラジル国への日本移民が再開されていました。勝也は逆に1958年になって、マリアを伴って日本へ帰国しました。当然その時はマリアにも日本旅券が発行されました。
川地家は古い日本の大屋敷に、父の兄の叔父夫妻、その2人の息子(従兄)夫妻の3家族が住んでいました。同じ敷地内の離れに、勝也夫妻は住むことになりました。
勝也は間もなく市内の自動車の部品工場で働くことになりました。マリアはこの大屋敷の勝也の叔父叔母、それに二人の従兄弟たち夫妻とも親しくなり、買い物、料理、洗濯等を教わりました。何分にも言葉が十分伝わらないながらも、楽しく日々を送ることが出来ました。特にマリアのイタリア料理は屋敷内の家族だけでなく、その地域の人々の評判になりました。勝也は帰宅していつもマリアに強く抱擁しました。
そして瞬く間に3年が過ぎました。
1961年9月に恐ろしく強い台風が高知県を襲いました。1934年の室戸台風に匹敵するとまで言われました。大屋敷内の勝也の離れ近くの欅の大木が倒れ、そのために電線が切れ、大木に垂れ下がり、勝也は本当に運悪く、大木の枝を切り倒そうとした瞬間感電して、そのショックで死亡してしまいました。
「どうしよう! どうしよう!!」
マリアは大声で泣き続けましたが、どうすることもできません。その後、葬儀を済ませ、茫然と何日も過ごしました。何となく冷たく感じて、川地家に収まることもなく、結局マリアは一人寂しくブラジルへ帰国することにしました。3年半の日本の生活から早くも未亡人になってブラジルへ帰ってきたマリアは、当然に父母のイタリア料理店に収まりました。優しい両親の愛情を受けて、次第に落ち着いてきました。
そして一年もたったある日、父が同じイタリア系のブラジル人、トーマスをマリアに紹介しました。イタリア語の多少交じるブラジル語でも2人は十分通じ合いました。そしてその年のクリスマスが過ぎた28日に結婚しました。その翌年の11月3日には男児が出生しました。その子供にタケオと日本名を命名しました。全く日本人の血が混ざっていませんが、タケオは日系二世になりました。そして将来彼が日本への就労を希望すれば、定住者としての査証が下りることになります。
【日本国籍取得の裏技その2】
1924年(大正13年)11月30日までに、日本人の子として出生した者は、旧国籍法施行時の出生であるから、今からでも出生届を提出することで、日本国籍を取得する。
(村木治夫)は日本人の植民地(平野植民地)で生まれた3世であるが、2世の母親がこの植民地で日本語学校の先生をしていたこともあって、実に流暢に話すだけでなく、かなりの日本語の文章の読み書きができた。その上、ブラジルで工学部を卒業し、エンジニアとなり、日本からの進出会社、TVや音響機器の製造会社に勤務したので、日本からの出向者達から随分重宝された。そのうち1年間の日本研修生活も行い、勤務する進出会社で重要な役割を担うようになった。その後、日系女性と結婚して、間もなく男子をもうけた。
ところがそののち、ブラジルが未曽有の不景気に陥り、膨大なインフレ状況が続き、経済モラトリアムを宣言せざるを得ない最悪の事態となり、残念ながら村木治夫は会社を去ることになった。そしてその時にブラジルから日本への出稼ぎブームが始まり、間もなく3世として、定住者としての資格を取り、日本の自動車工場の技術方面の仕事に就いた。
職場では、日本人とは流暢な日本語で、多くのブラジル人のデカセギ者達とはポ語で会話をし、彼は非常に大切に扱われた。かれこれ10年もの年月を過ごしていた。
ところで治夫の息子秀樹は、父を求めて、日本の自動車工場への仕事を希望したが、秀樹は4世であることから定住者としての査証は下りなかった。
そこで治夫は、自身の父健介(秀樹の祖父にあたる)の出生届を総領事館に届け出ることにした。健介は1920年11月3日にブラジル国で出生している。健介の両親は1917年に移住。遠くコーヒー園に配耕され、移住から3年後に健介を産んだが、彼の出生届を日本国へ届け出ることなど考えも及ばなかったようだ。ブラジルの役場に届け出たのも就学に必要な手続きのため、11歳になってからだったという。
もし健介の出生届けが日本に受理されれば、健介は日本国籍者、つまり1世になり、治夫は2世で、秀樹が3世となり、定住者としての査証を取得できるわけだ。その際、出生時に届けを出せなかった理由を、次のような「出生申出申述書」として提出する必要がある。
出生申出申述書
私は村木治夫です。私の父、村木健介は1920年11月3日平野植民地で出生しています。父の両親は1917年に移住、日本人が多く入植した地からも遠く離れたコーヒー園に配耕され、厳しい生活続きだったようです。健介の出生届がブラジルの役場に出されたのは11歳になってからで、就学にどうしても必要になったために届け出たそうです。ですから父はそれまで就学もしていませんでした。
当時は交通も大変不便でだったので、父、健介はめったにサンパウロ市まで出かけることはありませんでした。いわんや隣国パラグアイ国やアルゼンチン国へ行ったこともなく、ですからブラジル国以外の国籍を取得する機会は全くありませんでした。
私の父、健介の旧国籍法施行時の出生につきまして、今般息子の私が遅延した出生事項記載を申し出致します。何卒、事情をご賢察いただきまして、受理くださいますようお願い申し上げます。