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《解説コラム》元大統領に有罪判決下した意義=バローゾ「遅れの時代を終わらせる」=ブラジルにおける軍の歴史的役割

2025年9月30日

退任の挨拶をするバローゾ最高裁長官(Foto: Valter Campanato/Agência Brasil)
退任の挨拶をするバローゾ最高裁長官(Foto: Valter Campanato/Agência Brasil)

バローゾ「遅れの時代」とは何か?


11日付オ・グローボ紙《ボルソナロ元大統領のクーデター未遂裁判、最高裁が審理終結「遅れの時代を終わらせる」バローゾ長官、モラエス判事を称賛》(oglobo.globo.com/politica/noticia/2025/09/11/barroso-elogia-moraes-ao-fim-de-julgamento-que-condenou-bolsonaro-fez-trabalho-herculeo-julgamento-e-um-divisor-de-aguas.ghtml)の冒頭には、こうある。

《最高裁(STF)のルイス・ロベルト・バローゾ長官は、クーデター未遂事件の審理が終了した後、「この裁判の判決は『遅れの時代を終わらせるもの』だ」と強調した。本件の審理を担当したアレシャンドレ・デ・モラエス判事の功績を高く評価し、「彼はまさにヘラクレスのごとき仕事を成し遂げた。今裁判は〝分水嶺〟であり、われわれは過去の遅れの時代を閉じることができた》

この「遅れの時代を終わらせる」(encerra o ciclo do atraso)という言葉を読んで、左派陣営にずっと残っていた苦い想いを感じた。この言葉の意味を解説したい。

2019年3月19日、トランプ米大統領(左)とボルソナロ伯大統領(右)(Palácio do Planalto, via Wikimedia Commons)
2019年3月19日、トランプ米大統領(左)とボルソナロ伯大統領(右)(Palácio do Planalto, via Wikimedia Commons)

ブラジルにおける軍事介入のパターン分析


クーデター未遂を起こした元大統領が有罪判決を受けるのは、ブラジル歴史上初だ。ボルソナロ氏は22年大統領選で敗北後、クーデターを企図して政権維持を図ったとして「クーデター未遂」「武装犯罪組織形成」「民主的法秩序の暴力的廃止」など五つの重罪で起訴されて、9月11日に懲役27年3カ月の有罪判決が下った。

この裁判は、かつて軍政を経験し長らく権力者の責任追及が免責されてきたブラジルにおいて、司法による民主主義の擁護を鮮明に示す歴史的な転換点だ。

ブラジルにおける軍事介入のパターン分析すると、大きく分けて次の二つがある。


(1)【直接支配型】(軍が政権を奪取して統治するケース)

▼1889年:共和制宣言では、軍が皇帝を追い出して、直接政権を樹立。デオドロ・ダ・フォンセカ元帥が初代大統領に就任。

▼1930年:ヴァルガス政権樹立。軍が現職大統領を追放し、ヴァルガス大統領を擁立。以後15年にわたり政治の中心に据えた。

▼1937年:Estado Novo(新国家体制)。軍の支持を得たヴァルガスがクーデターを起こし、憲法停止・独裁体制を樹立。軍が国家統治に深く関与した。

▼1945年:ヴァルガス追放クーデター。軍がヴァルガスを直接排除し、文民政権への移行を実行した。この場合、軍が民主主義への道を開いた。

▼1964年:軍事クーデター。軍がジョアン・グラール大統領を追放し、21年間の軍政(1964–1985)を樹立。大統領職を軍人が継承した。

この直接支配型軍事介入の特徴は、権力の空白や危機を契機に、軍が「秩序維持」を名目に政権を直接に掌握することだ。


(2)【間接圧力型】軍が政権に圧力をかけ、政治を左右するケースは、軍が直接権力を奪わず、脅しや圧力で政治の方向を変えるタイプだ。

▼1891年:デオドロ・ダ・フォンセカ辞任。軍部内の対立で大統領辞任。軍の内部均衡が政治を動かした。

▼1932年:護憲革命。軍の分裂とサンパウロ州勢力の反乱。最終的に連邦政府軍がサンパウロ州軍を鎮圧したが、憲法制定への圧力となった。

▼1954年:ヴァルガス自殺。軍部が汚職事件などを口実に退陣を迫り、ヴァルガスは辞任を拒んで自殺。

▼1961年:ジャーニオ・クアドロス辞任後、副大統領ジョアン・グラールの就任を軍が拒否。最終的に妥協として議院内閣制を導入した。

この間接圧力型パターンの特徴は、軍は政権を直接掌握せずとも「拒否権プレイヤー」として振る舞い、政権交代や制度変更を左右したことだ。

つまり、直接支配型は、ブラジル政治の大転換点(1889年・1930年・1964年など)に現れる、国家体制を根本的に変える大規模介入だ。

間接圧力型は、平時や選挙後の権力移行期に多く、軍が「国家の守護者(Pacificador)」として拒否権を行使する。特に20世紀中盤までは「軍が最後の決定権を持つ」構造が歴史的に常態化しており、「現在もそれがある」とする主張がボルソナロ派軍人には顕著だ。

現在の22年クーデター未遂事件では、軍全体としては消極的で、部分的関与にとどまったため「直接支配型」とは異なる。ただし、一部の将官が積極的に動いた点は「軍の伝統的介入」との連続性を感じさせる事例といえ、それが今回の有罪判決に繋がったようだ。

オペレーション・ブラザー・サムでブラジル沖に展開された米国海軍の軍艦(https://pt.wikipedia.org/wiki/Opera%C3%A7%C3%A3o_Brother_Sam)
1964年のクーデターの際、連邦議会付近に駐留していたブラジル軍の戦車とその他の車両(Arquivo Público do Distrito Federal, Public domain, via Wikimedia Commons)

軍政の背後にある米国介入の歴史


米国介入という意味でも、今回のクーデター未遂事件は興味深い展開を見せている。歴史的に米国の影響が見られる軍事介入には次の事例がある。

▼1930年:ヴァルガス政権樹立。1930年の政権交代自体への米国関与はほぼないが、政権交代後に米国は深く食い込んだ。米国は当初、中立的な姿勢を装ったが、米国企業(特にコーヒー・鉄道利権)を通して政権とは深い繋がりが生まれ、ヴァルガスが政権をとった以降は特に関係が深化。その結果、大戦直前に米国が敵国とした枢軸国(日独伊)の移民が迫害される流れ、資産凍結令などに繋がっていった。

▼1945年:ヴァルガス追放クーデター。米国の強い要請でブラジルは第2次大戦に連合国側で参戦。米国はラテンアメリカの民主化を推進した結果、戦後、ヴァルガスが独裁体制を継続することに米国が懸念を示し、軍に圧力を与えて、ヴァルガスの排除を後押した。

▼1954年:ヴァルガス自殺(間接圧力型)。選挙で選ばれて大統領に就任したヴァルガスは石油国営化(Petrobras創設)や民族主義的政策を推進した。米国の影響としては米国企業(特にスタンダードオイル)がそれに反発し、米政府もブラジル軍部の反ヴァルガス派を支持。軍の圧力を受け、ヴァルガスは辞任を迫られ、拒否して自殺した。直接的介入ではないが、米国の経済的利害と軍部の行動が連動した例だ。

▼1964年:軍事クーデター。ジョアン・グラール大統領が労働改革・土地改革を推進し、社会主義寄りと見られた。冷戦下で米国は「共産主義の脅威」と認識した。米国政府(ジョンソン政権)はCIAや国務省を通じて反グラール派を支援。米海軍は「オペレーション・ブラザー・サム」としてブラジル近海に艦隊を派遣、燃料や兵站支援を準備した。そのクーデターは成功、21年間の軍政が始まった。

つまり、1889年や1930年のクーデターは国内要因が主体で、米国の関与はほぼなかった。64年が米国の直接的関与が最も明確なクーデターだ。冷戦下の「反共」戦略の一環だった。

オペレーション・ブラザー・サムでブラジル沖に展開された米国海軍の軍艦(https://pt.wikipedia.org/wiki/Opera%C3%A7%C3%A3o_Brother_Sam)
オペレーション・ブラザー・サムでブラジル沖に展開された米国海軍の軍艦(https://pt.wikipedia.org/wiki/Opera%C3%A7%C3%A3o_Brother_Sam)

「オペレーション・ブラザー・サム」とは


1964年の米海軍「Operation Brother Sam」は、ブラジル史において特筆すべき軍事計画だった。当時の政治的な背景としては、当時の左派ジョアン・グラール大統領(1961–1964)は、労働者の権利拡大、土地改革、国有化(特に石油・通信)を推進。米国や多国籍企業は「社会主義化の兆候」と見なした。

当時、冷戦期(ケネディ政権~ジョンソン政権)であり、米国は「キューバの二の舞」を恐れ、南米での共産主義拡大を阻止する方針をとっていた。

作戦準備としては1964年3月27日、CIAと米国務省からの「反グラール派軍人によるクーデターが近い」と報告が上がってきたのを受け、米国大統領リンドン・ジョンソン(民主党)は3月31日、「グラール政権が倒れるなら、アメリカは軍事・経済的に全面支援する」と閣僚に指示した。ジョンソンの言葉(記録に残るメモ):"I'd like to be in position to help him [Castelo Branco]. We just can't take this one, and I'd like to be ready to do something."(訳=カステロ・ブランコ将軍を助けたい。グラールは許容できない。我々は何かをする準備を整えねばならない)との指令が発せられた。

それを受け、米海軍部隊をブラジル沖に派遣した。空母、駆逐艦、補給艦などを動員し、大西洋に待機した。名目は「米国市民の保護」だが、実際にはクーデター軍への軍事支援準備だった。米海軍が軍艦を派遣している今のベネズエラ情勢に少し似ている。

燃料・兵站支援としては、サントス港に米艦船を派遣し、クーデター軍に石油・ガソリン・弾薬を補給できる態勢を整えた。通信・諜報支援としてはCIAが首都リオやサンパウロ市に常駐し、反グラール派軍人と米国務省を直結させ、クーデター成功のための調整役を果たした。

その結果、1964年4月1日、軍部がグラール大統領を追放。大統領はウルグアイへ亡命した。クーデター軍が短期間で政権を掌握したため、米艦隊の上陸作戦は実施されなかった。カステロ・ブランコ将軍が大統領に就任し、軍事政権が開始。米国は直ちに承認・支援を表明した。

つまり「オペレーション・ブラザー・サム」は、米国がブラジルの政権交代を軍事的に準備・後押しした冷戦期の典型的事例だ。実際に戦闘介入は不要だったが、クーデター軍にとって「背後に米国がついている」という保証が決定的な心理的効果を持った。

その後21年間続く軍政は、米国から経済援助と軍事協力を受けて強化され、冷戦構造の一翼を担った。国家真実委員会(Comissão Nacional da Verdade, CNV)」が2014年にまとめた最終報告で、軍事政権中に行方不明者・殺害された反体制活動家の犠牲者公式人数は434人だが、実際はさらに多いという話もある。


亜国チリは軍人を訴追、ブラジルは「免責」


1960年代から80年代にかけて南米各国で相次いだ軍事独裁政権は、多くの市民に拷問・失踪・殺害といった深刻な人権侵害をもたらした。その後の民政移管から数十年を経た現在、各国が「過去とどう向き合ったか」は大きく異なる。

亜国では1976年のクーデターから83年までに約3万人が〝失踪〟したとされる。民主化直後の1985年には「軍事評議会裁判」で独裁政権の首脳が有罪判決を受けた。その後、軍の圧力で一時は免責法が導入されたが、2000年代に無効とされ、再び訴追が活発化。現在に至るまで数百人規模の元軍人や治安関係者が拷問・殺人などで有罪判決を受けている。

1973年のクーデターでピノチェト将軍が政権を掌握したチリでは、当初1978年の恩赦法が訴追を阻んだ。しかし、司法は「強制失踪は継続犯罪」と解釈し、時効や恩赦の適用を否定。2000年代以降は多数の元軍人が裁かれ、数百件の有罪判決が下された。ピノチェト自身も訴追を受けたが、06年に死去し最終判決には至らなかった。

対照的に、ブラジルでは軍政が1979年に恩赦法を「両側に適用される」という名目で制定し、反体制派の解放と同時に軍や治安機関による人権侵害も免責した。民主化後もこの法は維持され、2010年には最高裁自身も合憲と判断。米州人権裁判所が改正を求めたが、加害者が司法の場に立たされることはなく、過去の清算は進まないままとなっていた。

南米3カ国の歩みは、過去の人権侵害に対する司法的対応が国の歴史認識や民主主義の成熟に直結することを示している。亜国とチリが「訴追と記憶の継承」を進める一方、ブラジルは依然として「免責と沈黙」だった。それをバローゾ長官は「遅れの時代」と呼んでいた。

社会の分断が残るなか、過去とどう向き合うかは今なお重い課題だ。大航海時代のグローバル化における格差社会の典型「植民地」から始まった国家・ブラジルの政治体制のデフォルト(原型)は、歴史的被害者意識から左派要素が強いと思う。それが行き過ぎだと軍部が感じた時にクーデターが繰り返される歴史だ。グローバル時代の覇権国・米国が超法規的な手段を辞さずに、ブラジル左派政権と対立する構図は、実に歴史的なものだと痛感する。(深)


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