アマゾン暮らしの極意聞く=日本語ガイド大塚喜吉さん=中=揺れるボートの上を歩く74歳
父の教えと責任
大塚さんは福岡県嘉穂郡嘉穂町の出身。父は海軍に従事し、長崎で原爆を目撃した被爆者だった。健康を害して52歳で亡くなった。「被ばくで骨が弱くなってしまい、あっちのアバラが折れた、こっちのアバラが折れたと言って何もできなくなって、男の一番いい時期なのに悔しいと言ってました」。そして、当時14歳の大塚さんは一家を背負うことになった。
「父から教わったのは『どう生きるか、どう働くか』だった。私は長男だから、弟妹を育てる責任があった。妹が結婚するまで見届けてから、自分は32歳で結婚しました」
教育と病との闘い
アマゾン移住で最も辛かったのは病気と食料不足だった。マラリアにも罹り、仲間を失った。学校もなく、日本人教師が子どもたちを教えた。1968年、ようやく州立学校が開設され、教育の道が開けた。「道も悪くて、砂利の坂なので、野菜を出荷するにも車を押して持っていかなければならず、アスファルトの道ができて楽になりました」
現在の活動と健康の秘訣
労働組合で12年間働いたのち、1998年から観光ガイドを始めた。今も現役で活動を続けている。
「70歳、80歳になってボケて同じことを言い始めたら終わりだ。でも今はまだ大丈夫だと思っているから、こうしてやっています」
ボートの上をスイスイと歩き、とても74歳に見えない大塚さんに健康の秘訣を問うとこう答える。
「頭を働かせ、体を動かすこと。テレビや携帯ばかり見ていたら呆ける。毎日考え、動く。それが生きる力になる」
1998年にガイドの仕事を始めて以来、大塚さんは四半世紀にわたり、アマゾンの自然と人々をつなぐ役割を担ってきた。
ガイド業の試練と危険
長年ガイドをしてきた中で、時に想像を超える場面に遭遇することもあった。観光客とのトラブルや、裏社会の人物を案内する場面も経験した。「『お前、殺すぞ』と言われたこともあります。でも、そういう時も怯えずに対応しました」と振り返る。
だが最も恐怖を覚えたのは自然の中だった。ジャングルでジャガーに遭遇し、牙を向けられた。幸いにもジャガーが満腹だったため、襲われずに済んだという。さらに彼が「アマゾンで一番怖い」と語るのは意外にもピラニアではなく、カンディルという細長いドジョウの仲間だ。傷口や体内に侵入し、命を脅かすことがある。「出来物や傷がある時は、川には絶対に入ってはいけません」と警告する。
(続く、取材=麻生公子)








