アマゾン暮らしの極意聞く=日本語ガイド大塚喜吉さん=上=厳しい入植当時の生活を乗り越えて
1958年11月5日、神戸を出発した「あるぜんちな丸」がアマゾン川河口の町ベレンに到着した。ロサンゼルスを回り、58日間に及ぶ航海のあとだ。ベレンからさらに1カ月かかってアマゾン川を遡って、マナウスに渡った大塚喜吉さん(きよし、福岡県出身、74歳)。まだ7歳だったが、上陸したその日を忘れていない。
「ベレンからマナウスまで川を上るのに当時1カ月かかった。船は木造の蒸気船で、薪を燃料にしていたからものすごく遅かった。牛や豚も一緒に積まれていて、『牧場に連れて行くのですか』と聞いたら、『いや、あなたたちの食べ物だ』と言われたんです」
厳しい入植初期
到着したその日に一家はエフィジェニオ・デ・サーレス植民地へ送られ、まずブラジル人が作った大きな会館に宿泊した。夜、猿の鳴き声をインディオと勘違いし、鉈を握って二、三日、24時間交代で見張った。「ただの猿の声だと分かってから安心して仕事を始められた」という。日本人同士が皆で1軒ずつ家を建て、数年後、ようやく各家庭が独立して暮らし始めた。
生活は過酷だった。家畜はなく、鹿やイノシシを狩り、川魚を捕って飢えをしのいだ。「食べるものがない時代でね、目の前にあるパパイヤの根っことか、ずいきとかセリとか茸なんか食べていたけど、みんな毒で駄目だったね。日本では馬鈴薯を食べて生き残ったそうだけど、こっちはキャッサバ」。1970年代に入って牛や豚、ヤギが導入されるまで、肉は、ピラルク(巨大な古代魚)と、マナティしかなかったそうだ。
その後、日本から持ち込んだ野菜の種、大根、小豆、トマト、ピーマン、キャベツ、キュウリを植えた。現地にあったのは細いネギや小さなトマト程度だった。「野菜を作っても最初はまったく売れなかった。アマゾナス劇場の横で販売して、4年がかりで、やっと買ってもらえるように。ブラジル人に野菜の栄養を説き食べるよう勧めて、やっとね」
胡椒栽培の挫折
開拓リーダー育成を目的に東京に設立された「高等拓殖学校」の卒業生が「高拓生」として、戦前アマゾン中流域に送り込まれた。「尾山良太さんとか、ジュートの種を持ってこられて麻袋を作って、勲章もらいましたけどね、その後が僕たちだったんです」。1958年の入植の目的は胡椒栽培であった。だが15〜20年で根腐れ病が蔓延した。対処には強力な農薬が必要だったが、あまりに危険で断念せざるを得なかった。「あの薬は『骨を溶かす』と言われるほど強力だった。命を守るために、胡椒をやめるしかなかった」
以後は果樹や養鶏に切り替え、生活の糧を確保していった。
大塚喜吉さんの人生は、アマゾン移住者が直面した困難と希望を映す鏡である。その証言は、時代を超えて生き抜く力を語りかけている。(続く、取材=麻生公子)







