名桜大学研究者らが移民短歌研究=コロニア歌人の百年の孤独と再会=31音に刻む「離散と定着」の記憶《編集長コラム》
当事者の声で掘り起こす歴史
2月半ば、沖縄短歌をめぐる共同研究の一行が、およそ1週間の日程で来伯した。目的は、ブラジル移民社会に根づいた短歌の歩みを、当事者の声によって掘り起こすことにある。
2月14日午前、サンパウロ市のブラジル日系熟年クラブ連合会会館で、1938年創刊でコロニア唯一の短歌専門誌『椰子樹』代表の多田邦治さんら、関係者5人に聞き取り調査を行った際に取材した。多田さんにはすでに聞き取りが行われており、この日は他の4人を中心に、記憶の襞を一つひとつたどるような語り合いが続いた。
会場の空気がふと和んだのは、梅崎嘉明(よしあき)さんが多田さんの顔を見るなり「7年ぶりだね」と声をかけ、固く握手を交わした瞬間だった。コロナ禍を機に対面での短歌大会は途絶え、以来、本紙と『椰子樹』誌上での発表が主となった。かつては批評の言葉を直接に交わし、互いの息づかいを感じながら歌を詠み合った。だが今は、紙面が再会の場となった。90歳を超えた歌人たちにとって、7年という歳月は決して短くはない。
3人の研究者が来伯
沖縄の名桜大学国際学部教授の屋良健一郎さんは語る。「今回は沖縄出身者の短歌を中心に調べていますが、日本からブラジルへ渡った人々全体が、どのような言葉で経験を詠んできたのかにも強い関心があります」。沖縄という土地は、歴史的に幾度も外圧と向き合ってきた。その記憶を抱える研究者が、さらに遠い南米の地で紡がれた言葉に耳を澄ませる。そこには、離散と定着という普遍的な問いが横たわる。
国際協力機構(JICA)ボランティアとしてサンパウロに滞在した経験を持つ長尾直洋准教授は、沖縄からの初期移民歌人、翁長助成らの足跡を追う。史料に残る文字は断片的だが、その背後には生活の重みがある。
さらに、万葉集研究を専門とする武蔵大学講師の大島武宙(たけおき)さん(歌号・寺井龍哉(たつや))も加わった。古典研究の視点から移民短歌を読み解き、「異郷で詠まれた歌の言葉には、万葉以来の伝統と、土地の現実とが重なり合う」と指摘する。はるかな昔、東国の防人が詠んだ歌と、南米の農地で生まれた歌が、同じ31音の器に収まる。その連なりを思うとき、時間の奥行きが立ち上がる。
懇談では、サントス港周辺で活動した沖縄系歌人、大城戸節子や金城ヤス子の名が挙がった。帰国後に消息が途絶えた例も少なくないという。移民史は、成功の物語だけでなく、記録に残らぬ沈黙によっても形づくられている。現在も詠作を続ける比嘉洋子や宮城あきらの名も紹介された。とはいえ、新聞など公的媒体での発表は減り、沖縄系歌人の実像をつかむのは容易ではない。
103歳の梅崎さん、日本語に救われた青春
とりわけ胸を打ったのは、3月に103歳を迎える梅崎さんの証言だ。奈良県出身。1932年、少年期に家族とともに渡伯した。戦時下、日本語の使用や移動、集会が制限されるなか、18歳頃、結核を患った友人から借りた文芸本を手に、独学で短歌を始めたという。「本だけが友だった」。その一言には、異国での戦時下、日本語に救われた青春の孤独が滲む。
「親父は数年お金を稼いだら日本に帰るつもりだったから、僕らはこちらで学校へ行かず、ポルトガル語を覚えなかった。しかも戦争になって何もできなかった。本だけが友だった」などと証言し、借りた伊藤左千夫や斎藤茂吉の本にかじり付きながら、見よう見まねで短歌などの文芸活動を始めた青年期を振り返った。
終戦後の1950年にサンパウロへ移り、復刊していた邦字新聞に投稿を重ねた。活字になった自らの歌は、異郷にあっても日本語が確かに生きている証しだった。1963年、最初の歌集を刊行した。
仲間が生まれ、歌会が始まる。生活の糧を得ることが最優先の移民社会において、文学は必ずしも理解を得やすい営みではなかった。それでも短歌は、日々の労働の汗や、赤土の匂い、夕暮れの雲の色をすくい取り、心の均衡を保つ場となった。
カフェ栽培が盛んだった土地は、やがてサトウキビ畑へと変わる。相撲大会や野球、剣道大会でにぎわった移民社会も、世代交代とともに姿を変えた。だが、歌は残る。短歌は、歴史の表舞台に立たぬ人びとの記憶を封じ込める小さな容器だ。31音という制約は、むしろ過剰な感情を削ぎ落とし、核心だけを残す。
小野寺「厳しい先生方にビシビシ教えてもらった」
小野寺郁子さん(95歳、愛知県出身)は1939年、小学校3年の時に家族で渡伯。その際、担当だった堀野正文先生から「外国へ行っても日本語を忘れずに勉強しなさい。いつも元気でいるように。手紙を待っていますよ」というはなむけの言葉をもらった。
「名古屋で都会生活に慣れていたので、チエテ移住地での開拓生活には苦労しました」。渡伯まもなく戦争が始まって公の場で日本語を使うのは禁止になり、日本語の本は隠れて読まなければならない時代になった。言葉を奪われるとは、自己の一部を失うことでもあった。
20歳ぐらいの時、移住地の女子青年会に椰子樹の同人が話に来て、短歌のことに興味が湧いた。1970年に出聖してサンパウロ短歌会で作り始め、「厳しい先生方に囲まれ、ビシビシと教えてもらった。その頃に短歌をやっていた方はほとんど亡くなってしまわれました」と目を細めて語った。
寺田「月に50首ぐらい作るが、気にいるのは10首」
戦後移民の寺田雪恵さん(90歳、愛媛県出身)は故郷でおばに短歌を教わり、19歳で大分県の医療教育機関に在学中に初めて短歌結社に入り、卒業後に大阪日赤病院に就職、そこでも歌会に毎月通った。25歳で結婚し、26歳で夫と共にブラジルへ。
「子育てで短歌どころではなく、明治男の夫が養鶏業を営み、3年ごとに20箇所もサンパウロ州内を転々とした生活でした。アルゼンチンや日本にも5年ずつ暮らした。でも心の支えとして椰子樹との連絡は欠かさず、できるだけ歌を送っていた。寝る前に枕元にメモ帳を置き、思いついた歌を書き留める。月に50首ぐらい作るが、気にいるのは10首ぐらい」と笑った。
歌の背後には、眠れぬ夜や、遠い故郷への思いがあった。
小池「短歌では、金持ちも貧乏人も関係なく平等」
やはり戦後移民の小池みさ子さん(89歳、長野県出身)は、コチア青年夫婦として1960年に渡伯。「夫が百姓向きじゃなくて」4年間の義務農年を1年で切り上げて、サンパウロ市郊外のオザスコに出てきて、八百屋、エンポリオなどの商売に従事。渡伯20年頃に夫が亡くなり、以後、娘2人を女手一つで育て上げ、大学にも出した。
「20年ぶりに日本に帰って高校の同窓会に出た時、昔みんなで作っていた歌集を見せられて刺激を受け、ブラジルに帰ってきてから短歌を作り始めた。当時、日伯歌壇で選者をしていた梅崎さんに、私の作品をすごく褒めてもらい、嬉しくなって続けるように。当時は戦前移民の方ばかりで、弘中千賀子さん、陣内しのぶさん、清谷益次さんなど、とても厳しく批評される方ばかりだった」と振り返った。
その一方で、「戦前の皆さんはとても苦労されているはずなのに、普段はとても明るくて、全然苦労を見せない、とても良い人ばかり。短歌をやっていると、金持ちも貧乏人も関係なく平等。そんな姿を見て、苦労しているのは自分だけじゃないと、元気をもらって短歌を続けていました。それが短歌を続ける原動力でした」との思いを明かした。
その言葉は、移民社会の階層や苦労を越えて、短歌が人と人を結ぶ絆を示している。
1938年創刊、コロニア最古の『椰子樹』
歌人の皆さんが属する『椰子樹』は、1938年10月に岩波菊治や木村圭石らが中心になり、当時の坂根準三総領事とリオ横浜正銀の椎木文也支店長らが経済的な後ろ盾となって、34人の同人と共にサンパウロ市で創刊した。
当時はヴァルガス独裁政権で日本移民に対する風当たりが強まる逆風の中での出発であり、日本語出版物は戦争中に全て中断。日本人集会禁止だった戦時中にも関わらず、モジ郊外のコクエイラにあった、周囲に日本人ばかりが住んでいた養鶏場では、岩波や古野菊生、武本らも参加し、「秘密の歌会が年に3回ほど行われていた」という逸話も聞いた。
だが、終戦直後の47年にサンパウロ歌会は復活。仲眞美登利、岩波、武本、清谷、徳尾宅などを会場に持ち回り開催された。椰子樹が再開した翌1948年から全伯短歌大会も始まった。
あと2年で90周年の節目
〝ブラジル短歌の父〟岩波菊治は農業の傍ら、『椰子樹』の選者として精進し、1952年に惜しくも胃潰瘍で52歳という若さで逝った。1954年、サンパウロ市誕生400周年を記念してコロニアが力をあわせて取り組んだ日本館の庭には、彼の歌碑が除幕された。庭には代表歌「ふるさとの信濃の国の山河は心に泌みて永久におもわむ」と故郷・信州への望郷の想いが刻まれている。
最盛期1960~70年代には500人ほどの歌人が全伯におり、うち200人以上が『椰子樹』の会員となり、年6回発行で70頁もあった。2008年の頃には40頁、2025年9月の第406号の時点で32頁まで減ったが、まだまだ続いている。
『椰子樹』編集に長いこと携わり、2020年9月に104歳で亡くなった安良田済(あらたすむ)さんは「海外に現存する短歌誌としては世界最古」と繰り返し延べていた。
あと2年で創刊90周年という節目を迎える、コロニア最古にして唯一の文芸誌になった。
移民文化の強靱さを物語る『椰子樹』
研究チームは今後、個々の人生史と作品を照合し、沖縄とブラジルを結ぶ言葉の軌跡を体系的に整理する方針だという。移民短歌の数は決して多くない。だが、その一首一首には、およそ100年に及ぶ生活史が凝縮されている。
遠く離れた南米の地で、日本語の定型詩が世代を超えて詠み継がれてきた事実。その静かな持続は、移民文化の強靱さを物語る。
沖縄の記憶とブラジルの大地が交差するところに生まれた短歌は、いまも人びとの胸の奥で、かすかな灯のようにともり続けている。読む者に多くを語らず、しかし確かに何かを手渡す。その余白に、百年の歳月が宿っている。(深沢正雪)








