《寄稿》臼井牧之助の功績を再検証=トメアスーに胡椒苗を移送=移民史研究家(日本在住) 下元豊
トメアスー略史
トメアスー植民地(旧称アカラ植民地、パラ州)はかつて胡椒で大成功をおさめた植民地として知られている。1933年7月、南米拓殖(南拓)の移民監督官であった臼井牧之助が南洋産胡椒苗をシンガポールからベレン(トメアスー)に運び、それが戦後の胡椒景気によるトメアスーの大発展に繋がった。このため臼井牧之助はトメアスーの大恩人として高く評価され、トメアスー発展の功労者には臼井牧之助賞がおくられている。つまりトメアスーの基礎を作ったのは臼井牧之助がもたらした胡椒であると広く認識されている。
確かに南洋産胡椒をシンガポールからトメアスーに移送したのは臼井であることに間違いはない。だが、同人の南洋産胡椒の入手方法・ベレンまでの移送方法についての詳細はほとんど知られていない。このため一般的には、臼井が自発的にシンガポールで胡椒苗を入手、苦労してトメアスーまで運び、それが戦後のトメアスーの胡椒景気に繋がったと認識されている。筆者はこの認識に疑問を有していた。
ところで胡椒景気は1970年代中盤までとあまり長くは続かず、根腐れ病、胴枯れ病などにより胡椒生産が減少した。トメアスーは生き残りをかけ様々な作物・農法を模索した結果、行き着いたのが森林農業である。
現在、トメアスーは森林農業という農法で世界的に注目されている。この農法は既存の生態系を生かしながら有用作物を栽培するもので、ブラジルに多く見られる森林を伐採し単一作物(コーヒー、大豆、トウモロコシ、綿花など)を作付けする大農法とは一線を画している。トメアスーが森林農業に行き着くまでには紆余曲折があった。
入植者の76%が脱耕した苦難の歴史
1923年10月のレイス移民法案(有色人種の移住制限)の議会提出により、日本政府はブラジル移民が制限される可能性を憂慮した。このブラジル側の動きはサンパウロ州への日本人移民集中を憂慮した動きとみられる。これに対しパラー州のディオニジオ・ベンテス知事は同州への日本人移民のために移住地提供を表明した。
日本政府はパラー州への移民送出を目論んだが、予算の関係もあり鐘紡にその任を託した。1926年5月、田付大使は福原団長(鐘紡)とベレンで合流し、適切な移住地を物色した。最終的にはアカラが選択され、1928年8月に鐘紡の子会社南拓が開発に乗り出すことになった。
南拓がアカラ植民地開発に際し、インフラ、住居、事務所、病院などを整備したことは評価に値しよう。しかし、移民が必要とする主食の米を事前に手当てしていなかったため、当初移民は高価(1俵90ミル)で米を購入することになった。移民が稲作を開始し販売しようとすると1俵8~9ミルにしかならず、農民の怒りが爆発した。
これは米をあまり食べなかったアマゾン住民の習性に起因した結果である。つまり移民がアカラに入植した時点ではベレンには住民の米需要が少ないため、充分な米の備蓄がなく米価が高騰し、その後移民が米を栽培しベレンで販売しようとしても需要がないため価格が暴落した。
主要作物であるカカオは植付後収穫まで数年を要し、しかもその生育も思わしくなかったことから、移民は生き残るために短期作物(稲、果物、野菜など)を栽培しベレンで販売しようとした。
当時のベレンでは野菜を食べるのはごく限られた人たちで、その消費量はわずかであった。このため移住者は野菜の料理の仕方から教える必要があり、ベレン在住の著名な邦人コンデ・コマも野菜普及に協力した。こうした移住者の苦労・努力の結果、野菜の消費量は徐々に増加していった。
しかし、移民と南拓の契約では収穫物の3割を南拓に支払うことになっており、生活に困窮する移民にとってこれは耐え難いことであった。このため稲の収穫をボイコットするストライキにまで発展した。生活の困窮は移民の体力をも消耗させ、マラリヤやその他の病気に罹患するものが続出した。
このようにアカラ植民地の惨状は南拓の不手際や硬直的な経営姿勢に起因するところが大とみられ、福原社長は私財を移民に提供し辞任・帰国した。
確かにアカラ植民地を設立した南拓の計画のあまさが指摘されるが、上述のとおり本事業はサンパウロ州への日本人移民受入れを拒む動きを察知した日本政府が鐘紡に協力を求め、アマゾン(パラ州)への移住地確保を目的とした事業であった。このため移住地開発に充分な時間的余裕がなく調査不足でであったことも事実で、南拓は限られた時間内で最善を尽くしたものとみられる。
1935年4月、南拓は経営難により事業規模縮小を余儀なくされ、加えてマラリアが猛威をふるったこともあり脱耕者が続出した。1935年から1942年までの脱耕者は276家族1603名に上り、入植者の総数が352家族2104名だったので76%が脱耕したことになる。
大戦中に日本人収容所となった移住地
1942年以降脱耕者の記録がないが、これは日米開戦に伴う日伯断交により邦人の移動が制限されたためとみられるが、アカラでは枢軸国人の強制収容所が設置され政府の軟禁状態に置かれた。これは1942年8月18日、ブラジル商船がベレン沖でドイツ潜水艦に撃沈されたことにベレン住民が枢軸国人に危害を加える事件が発生したためである。政府はアカラに収容所を設置しアマゾン在住の枢軸国人を収容することになった。
米国とカナダでは日系人の強制収容所収容が広く行われたが、ブラジルにおいてはアカラだけであった。
アカラ植民地を経営する南拓は敵国資産とみなされ、州政府の管理下に入った。このため移住者の生産する作物のベレンでの販売および生活必需品の入手はすべて「州植民地管理局(Colonia Estadual de Tome-Acu: CETA)」-を通じて行われ、邦人は不利益・不便を被った。
日本人植民者が農産物と必需品を本格的に自由に売買できるようになったのは1947年、アカラ産業組合がCETAから農産物と必需品の売買権を取り戻してからである。
このようにアカラは他の植民地に比べ農産物・生活必需品の売買に大きな制約を受け、困難な状況に置かれていた。
アカラ植民地の移住者は入植時から終戦直後まで様々な困難に直面し、多くの犠牲者を出した点が注目されるが、ことにCETAによる農産物・生活必需品の売買管理は他のブラジルの植民地にはみられなかったことで、それだけ移住者の苦労・困難が大きかったと言えよう。
その後、アカラ産業組合は公認産業組合「トメアスー混合農業産業組合(通称トメアスー産業組合)」として登録され、アカラ植民地もトメアスー植民地と改称された。農産物の販売権を取り戻した産業組合は、1952年からの胡椒価格高騰と生産量拡大により大いに潤うことになった。
どうやって胡椒苗をブラジルへ運んだか
ところで臼井のシンガポールからトメアスーへの胡椒苗の移入であるが、熱帯農業の知識がほとんどないとみられる臼井が、シンガポールで胡椒苗をいとも簡単に入手し、それを枯らさずにトメアスーまで運んだことが筆者には信じられず、何か別の力が作用していたのではないかとの疑問を有していた。
筆者の主な疑問点は下記のとおり。
①1930年代のシンガポールには熱帯植物園はあったが、同地では胡椒栽培は皆無とみられ、せいぜい野菜・果樹類の栽培がなされていたに過ぎない(長尾武雄は「ピメンタ苗などはシンガポール市内では絶対に入手できず、マレー半島の専門農園でなければ手に入らない」と記している)。
②当時のシンガポールは日華関係の悪化により反日感情が強く、移民船の乗客は上陸禁止措置がとられたこと。これ以外に船内で疫病が流行した場合も同様の措置がとられた。臼井の乗船した「はわい丸」も上陸禁止措置がとられていたにも拘わらず、臼井は上陸している。
③臼井はシンガポールからベレンまで約2カ月間、胡椒苗に水をやって育てているが、当時の移民船では水は極めて貴重で使用制限(節水・給水制限)が課せられていた。それにも拘わらず臼井が必要なだけの水を使用できたのは奇異であった。
『トメアスー開拓50周年史』で疑問氷解
ここにきて『みどりの大地トメアスー:トメアスー開拓50周年史』を読み返していて筆者の疑問が氷解した。
①1930年代初頭南拓はカカオに代わる作物の導入を検討しており、拓務省から派遣されていた吉田悟郎技師の勧めもあり、南洋産胡椒を導入することになった。吉田技師→(南拓本社平井取締役)→拓務省→シンガポール在住の堺理喜太・照屋全昌拓務省技師という経路でマレー半島産の胡椒苗の入手が指示されることになった。
この胡椒苗は、シンガポールに隣接し胡椒栽培の盛んなジョホール州産の可能性大。照屋の詳細な経歴は不明であるが、同人は熱帯作物の専門家で南洋各地で調査を行っていた。堺理喜太は1917年、北ボルネオ・タワウでの久原鉱業のゴム園開発に協力したことで知られる熱帯農業の専門家である。平井取締役は照屋・堺両人の胡椒苗入手費用として100円を臼井に託している。
②「はわい丸」の上陸禁止にも拘わらず、臼井がシンガポールに上陸できたのは、移民の老婆が死去し埋葬する必要があったからである。
もし老婆の死去がなかったとしても臼井は移民監督官の立場を利用し適切な理由をつけて上陸したものと思われる。臼井は照屋・堺両人から胡椒苗を受け取るとともに、ベレンまでの航海中の水やり・管理方法を教わった。
③このように胡椒苗入手・搬出には、南拓のみならず拓務省も関係しており、臼井はこの点を船長に強調し水の融通を受けたものとみられる。
アカラ植民地ではカカオ栽培を目的としながらも陸稲、野菜栽培を行っていたが、南拓が1930年代初頭に、胡椒栽培を選択肢の一つとして考えていたことは重要な点である。南拓がシンガポールから南洋産胡椒苗をアカラ植民地に導入したことは、アマゾニア産業研究所の辻小太郎によるインド産ジュート種子の導入と相通じるものがある。
残念ながら南拓の経営難により1935年4月3日、面積1千町歩を越える直営農場の閉鎖、コロノ制度の解消、農事試験場の廃止が決定された。
ことに農事試験場の廃止は胡椒の栽培試験の中止を意味した。同試験場の胡椒は加藤友治、斉藤円治の両人に払い下げられ、両人は細々と胡椒の試験栽培を続けた。この両人の努力が戦後の胡椒景気に繋がった。
社命で運んだ臼井、個人の判断で育てた加藤、斉藤
このようにトメアスーの胡椒導入に関しては、初期の段階から南拓が深く関与していたが、これは福原社長が現地産の胡椒(生産量は南洋産に比べかなり少ない)に興味を持ち、社員や植民地で栽培を奨励してたこと無関係とは思われない。
ただ、上記のとおり南拓の経営難により、胡椒栽培を移住者に奨励するまでには至らなかった。
臼井の役割は、シンガポールで堺理喜太、照屋全昌から胡椒苗の受取り、ベレンまでの栽培管理を教わり(これは素人にはかなり難しい作業)、アカラの農業試験場への引き渡しであった。この臼井の努力は賞賛に値しよう。
さらに加藤、斉藤が個人で胡椒の試験栽培を続け、戦後の栽培面積拡大と価格高騰による「胡椒景気」に結びつけたことは高く評価されるべき点である。ただ、臼井が社命により胡椒をトメアスーに持ち込んだのに対し、加藤、斉藤の努力は個人犠牲に立脚したものであり、この点は留意しておく必要があろう。
(▼編集部注=下元豊氏は、コチア産業組合の創立者・下元健吉氏の「分家の遠い親戚」にあたる。樽屋をしていた豊氏の祖父が、道具を担いで近隣の村々をまわり、樽や桶の修理をしていた際、葉山村では下元健吉さんの家(本家)に何度か泊めてもらったとのこと。健吉さんが帰省した時は、ブラジルの話を聞きに行ったとの話を、豊氏は祖父から聞いたという)









