「無一文の巡礼」カナダ人旅人=エルサレム目指すも異国で孤独死
サンパウロ州沿岸部サントス市の路上で発見され、身元不明のまま埋葬された一人の外国人男性。その後の報道と家族の捜索により、彼が「無一文・無身分で世界を横断する」という信念のもと、1万キロ以上の旅を続けていたカナダ人、カール・アンドレ・ヴァン・ルーンであることが明らかになった。約2年に及ぶ消息不明の末に判明したその最期は、善意への信頼に支えられた一人の旅人の軌跡と、現代社会における支援の限界を浮き彫りにしている。
21日付ア・トリブナ紙(1)によると、カールは2024年、サントス市中心部で意識不明の状態で発見され、その場で死亡が確認された。警察の記録によれば、同年6月9日、市中心部の路上(センプロン・モレイラ通り付近)で倒れているところを通報され、現場に到着した救急医療サービスが死亡を確認した。司法解剖の結果、死因は血栓による肺動脈の閉塞、すなわち肺血栓塞栓症とされ、外傷などの暴力の痕跡は認められなかった。身分証を所持していなかったため遺体は身元不明者として扱われ、同年6月18日に市内のアレイア・ブランカ墓地に無償で埋葬された。
同紙の取材によれば、カールは2022年末から2023年初頭にサントス周辺で初めて確認され、サントス港で船舶への乗船を試みていたという。英語で会話し、詳細な身元を明かさず「カール」と名乗り、「使命を帯びている」と説明していた。支援に関わった非政府組織(NGO)の関係者は、「書類も持たず徒歩でエルサレムに向かう使命がある」と語り、道中で出会う人々の善意によって旅を続けられることを証明したいと話していたという。
彼は北米から南米にかけて複数の国を移動し、徒歩や見知らぬ人の助けを受けながら旅を続けていた。途中で南半球最大の港であるサントス港が他大陸へ渡る機会になり得ると知り、同地に向かったとみられる。サントス到着後は大西洋を渡る船への乗船を試みて港湾地域に通ったが、身分証明書を持たないため認められず、その後は市中心部で路上生活を余儀なくされた。カテドラル周辺などで頻繁に目撃され、地元住民や商店主、社会支援団体から食料や支援を受けていたが、公的機関が提案した身分証発行などの支援は「自らの使命(神への信頼)に反する」として拒否していた。
2024年6月8日付の同紙(2)は、すでにこうした状況を報じており、市中心部で数カ月にわたり路上生活を送る「謎の男性」について、目撃者の証言を伝えていた。市民の呼びかけを受けて掲載されたもので、男性は路上で寝泊まりし、手振りで意思を示しながらも英語やイタリア語を理解している様子があったとされる。空を指し手を前に動かすしぐさから「神による導きを待っているように見えた」との見方も示されている。
当初は礼儀正しく控えめな人物とみられていたが、強盗被害に遭った後に抑うつ状態に陥ったとの指摘があり、その後は孤立を深めてコミュニケーションを断ち、やがて言葉を発さず身振りのみで意思表示をするようになったとされる。身体的な衰弱も進行していた。サントス市当局は保護措置を試みたが、本人が頑なに受け入れを拒否したとしている。
2022年7月に米国ルイジアナ州に滞在していたのを最後に家族との連絡が途絶えて以降、家族は約2年にわたり捜索を続けていた。両親は、その間さまざまな手段で足取りの解明を試みていたが、2025年3月になって人工知能(AI)を活用した情報検索を行い、前記の2024年6月8日付ア・トリブナ紙の記事にたどり着いた。家族は記事に掲載された路上生活者の写真や特徴から、それが息子であると確信したという。(3)
その後、家族は同紙およびブラジル当局に連絡を取り、数日後、報道内容と一致する死亡記録の存在が確認された。指紋やDNAによる正式確認は継続中とされるが、家族は警察記録の写真や所持品から本人であると判断している。
カールは1982年12月25日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州サリーで生まれた。家族によれば、ドイツ系メノナイト(再洗礼派の一派)およびオランダ系の文化的背景を持つ家庭で育ち、若い頃から従来の枠にとらわれない生活を選んでいた。高校卒業後は各地を旅し、ヒッチハイクや共同体生活を通じて移動を続け、「道は糧を与える」という信念を指針としていた。オーストリア、メキシコ、ノルウェーなどを含む北米および欧州各地で生活し、職を変えながら生計を立てるとともに、共同体での経験や精神性を通じて自己の在り方を探求していた。
旅の途中では所持品を手放し、長期間家族との連絡を絶つこともあり、それは沈黙や極端な簡素生活、奉仕活動を含む精神的実践の一環とされていた。家族との最後の直接のやり取りは2022年7月、米ルイジアナ州で地域支援のボランティア活動に従事していた時期で、その後ブラジルへと向かう途中で消息を絶っていた。
家族は現在も、彼が2022年に米国を離れて以降、どのような経路でブラジルに到達したのかについての詳細な経緯の把握を進めており、この期間に彼と接触した人物からの情報提供を求めている。(4)









