ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(54)

ノロエステ線

 先に、植民地や小規模な入植地が各地で多数造られている……と書いたが、確かに、この頃、植民事業が本格化しつつあった。
 で、その場所であるが、それは当時、新たな開拓前線として注目されていたノロエステ線の沿線が多かった。
 ノロエステ線は、一九〇〇年代の初め、森の中の猟師たちの休息所を起点として、敷設され始め、西北西へと伸びて行った。その休息所の呼び名が「バウルー」だった。
 この新しい鉄道の沿線で、邦人の植民事業が始まり、ブーム化した。邦人だけでなく、南欧移民も多かった。
 彼らは鉄道が伸び、駅が出来るのを追うように、その周辺地帯に入植した。どこも駅は粗末な建物一つ、周辺を原生林が鬱蒼と包囲していた。
 駅に停車する汽車から降り立った入植者たちは、緑の樹海の中に入って行った。森を焼き、カフェーを植えた。それが育ち収穫が始まるまでの四、五年、米や玉蜀黍、豆を作って市場に運び、売り、生活した。
 入植者が増えると、駅の周囲に店ができ、やがて町となった。
 当時を記した資料が、次の様に表現している。
「駅開設の噂がパッと広まると、一年も経たぬ間に、その地方の森林地帯には、日本人が潮の如く押し寄せて…(略)…買い占めてしまう。駅を中心として三里の周囲至るところ、これ日本人の村となる。日本人栽培のカフェーの花の山となる」
 日本人だけがそうしたのではない。南欧系の移民もそうであり、数は彼らの方が多かった。日本人は顔つきが違うので、目立ったのである。例えば、前出の宮崎八郎が働いたビリグイ地方で、土地会社が分譲した植民地の区画を購入した家族数は二、〇〇〇に達した。が、イタリア人が一、〇〇〇、日本人が五〇〇、その他が五〇〇であった。
 ともあれ、ノロエステ線(沿線)は脚光を浴びる開拓前線となっていた。

青柳、帰国

 話変わって一九二〇年、イグアッペの青柳郁太郎は三番目の植民地セッテ・バーラスの建設にとりかかった。それが一段落した一九二四年、帰国した。最初のブラジル入りから十二年が過ぎていた。
 青柳が中心になって造られた桂、レジストロそしてセッテ・バーラスはイグアッペ植民地と総称されるようになる。  
さらに、その後、新設されたキロンボ、ジュキアの二カ所も加えることになる。
 青柳の帰国直前、レジストロの一部入植者が、営農成績不良で、海興に対する負債の清算ができなくなり、利子のカットを訴えた。この時、青柳はこう応えた。
「帰国次第、諸君の窮状を重役会議に訴える。通過すれば、その旨電報で報せる。不通過の場合は打電しないが、その時は私が会社を去る時で、再び重役として諸君に会うことはないだろう」
 電報は来なかった。青柳の植民事業は終った。

 青柳は、この国に於ける邦人の最初の植民地の建設者であった。その事績は重視されるべきであろう。が、今日に残るイメージは上塚、平野ほどの鮮明さはない。
 青柳は、写真で見ると、優しげな風貌であるが「初期の頃はともかく、その後は近づき難く、しかも寡黙の人であった」という。大衆的人気が湧くタイプではない。
 ある時、青柳は入植者たちを前に、
「五年や十年で目鼻がつけられるほど、植民地建設は簡単ではない。二十年……五十年とかかるだろう。その間、会社は手を引くことがあるだろう。が、残る諸君は戦い抜かねばならない。ここが諸君の墳墓の地である。君たちだけを泣かせはしない。自分もここで死ぬ覚悟である」
 と、切々と説いた、という。
 しかし結局、帰国した。もし彼が移民と心を通わせ、同じ土地に骨を埋めるタイプの人間であったら、邦人の移民史上、代表的な植民事業家として位置付けられたであろう。
 以上、初期の植民事業を描写してみた。
 筆者は、この章の始めの方で、
「植民事業に関する話となると、必ず名前を上げられるのが、上塚周平と平野運平である。もっとも、そういうとらえ方が適切かどうかは疑問だが……」
 と記したが、やはり、もっと広い視野でとらえる方がよかろう。
 青柳が帰国した年を基準にすると、邦人の植民地や小入植地は計二百カ所から三百カ所に向って増え続けていた。

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