ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(212)
そこに、戦時中、親密な関係にあったDOPSから、臣道連盟や戦勝派の動きが情報として流された。
その情報は状況誤認によるものであったが、米公館は気づかなかった。
従って「秘密結社臣道連盟の構成員十万」「日系社会の殆どが戦勝派で多数の団体を組織している」といった刺激的な情報に驚いた。放置すれば、怠慢になり、ワシントンから責められるであろう。
そこで対策を講じ、動き始めた。
当然、必要な工作費も投入したであろう。そうでなければ、州警察が、総力を挙げて既述の様な凄まじい動き方をするわけがない。上層部がそれを黙認するわけはない。
無論、米公館はブラジル政府にも、圧力をかけたであろう。
新聞の過度に派手な報道ぶりも、戦時中と同じであり、米側の手が回っていたと観ると、腑に落ちる。
長期的に観れば、米は日系社会に対し、五章で記した排日法、七章で記した締め付け、九、十章で記した迫害に関し、強い影響力を発揮していた。
それは歴史的流れとなっていた。そういう流れの中で、四月一日事件を機に起きた滅茶苦茶な現象を捉えると、霧が消える様に、疑問が解け、実態が見えてくるのである。
面目、丸潰れ
前項で少し出ていることだが、四月八日、DOPSは「シンドウ・レンメイは壊滅した」と発表した。
これは米公館向け報告も兼ねていたろう。
ところが、その直後からDOPSの面目を丸潰しにする事態が発生した。
実は襲撃事件は未だ始まったばかりだったのである。
以下、他の重要な動きも含めて、時系列式に以後の情勢推移を追う。
但し、襲撃事件については、十一章で断った様に、その総てに関する詳細な記録は存在しない。従って、資料類から採取できたものを記す。
筆者の観方も添える。
また、事件の幾つかは、筆者が関係者に取材できたので、それも加える。
なお、採取は主としてパウリスタ新聞刊『コロニア戦後十年史』、『ブラジル日本移民八十年史』(同名編纂委員会編)から行った。
いずれも、既述した様に、通説、認識派史観に基き臣道聯盟・特攻隊犯行説で内容を構成している。が、そのことは、改めて次章で深く掘り下げるとして、この章では事件に関する記事のみを利用する。
断っておくと、その記事は当時のポルトガル語の新聞のそれの翻訳であり、正確度には多くの疑問がある。
また事件によっては、記事は一、二行というモノが少なからずある。
頼りない話だが、実は、この二書物以外、纏まった資料は無いのである。
さらに、襲撃の動機に関しては━━四月一日事件と同様━━決起趣意書の類いが殆ど出ていない。ために、正確な処を把握し難い。
ともあれ、八日以降の情勢推移である。
四月十一日。
サンパウロで、藤平正義が狙撃された。狙撃者は不明。
この狙撃は、藤平の事務所の窓ガラスに穴を開けた程度であった。
筆者の観方では、この時点ではDOPSの被留置組の内、釈放されていた者が多少居った。また内部で何が行われているか、外部に伝わっていた。
そういうことが関係していたかもしれない。
四月十七日。
パウリスタ延長線地方マリリアで三浦勇、林久道、ほか一名が銃撃され重軽傷を負った。
三浦は前章で記した様に敗戦派で、戦勝派対策に腐心していた。
当日は、自身が経営する機械部品工場の事務所で執務中だった。そこに、若い男の訪問を受けた。男が差し出した書類に目を通そうとした瞬間、拳銃で腰部を撃たれた。
男は、そのまま外に出たが、追いかけた三浦の長男やかけつけた数名の住民に取り押さえられた。後で中村秋水と名乗った。
同時刻、同じマリリア市内。
敗戦派の林久道が事務所で来客と用談中、扉を外から叩く音がした。開けると、瞬間、拳銃で胸部を撃たれ昏倒した。
客の渋谷兼五郎も肩に被弾した。巻き添えを食ったのである。
銃撃者は、これも現場近くで捕えられた。名は福間正。
林も敗戦派だったが、目立つ存在ではなかった。
同じマリリアの(前章で登場した)西川武夫が残した手記によれば、福間は最初、西川を狙った。が、旅行中で不在だったため林を選んだという。
中村たちは四月一日事件に刺激されて、この行動を起こした節がある。中村は英雄志向の強い男だったという。(つづく)