開拓当時の苦闘物語(4)=サンパウロ 吉田しのぶ
掘っ建て小屋より少しはましな開拓小屋が完成し、次は井戸掘りに挑戦した。ここなら水が出そうだ、と素人判断で掘り始めたが30メートル掘っても水は出てこなかった。
諦めて二本目の井戸に挑戦し、20メートル掘ってようやく水脈に当り、水が出たぞと、井戸の底からの夫の声によかったと感涙がこみあげて、これで水汲みの苦労がなくなると二人で抱き合って喜んだのも懐かしい思い出である。
井戸が完成し、子供達もすくすくと育ってくれて6歳と4歳になった。いつもは井戸水を汲んで畠に出るのにその日は忘れて、子供たちは飲む水がないとわかると2人で井戸水を酌むことに挑戦したらしい。大人でさえ鶴瓶をまきあげるのは大変なのに6歳と4歳の子が井戸水をくみ上げて、薬缶に入れて畠まで持ってきてくれた。「二人で井戸水酌んだのよ」長女が誇らしげに薬缶を差し出した。今朝は水を汲み置くのを忘れていたことを思い出し、もし井戸にでも落ちたらと恐怖が込み上げて、ごめんね、ごめんね、と後悔の念を抑えることができなかった。
7歳になった長女は地域のファゼンダの小学校に通い始めた。ABCを一通り覚えたところで、日本語を習いたいと言い出した。日本語は話せても日本語を教える暇などない。組合から頂いた古い大きなカレンダーの裏側に「あいうえお AIUEO かきくけこ KAKIKUKEKO」と書いて壁に貼り付けておいた。それをみて娘はとうとうあいうえおを覚えてしまった。びっくりである。「おとうさん、おかあさん」とちゃんと書くではありませんか。手にとって教えた訳でもないのにこどもは覚えるのが早いなと感心し、、また誇らしくも思ったことです。
私たちが農業を諦める決断に迫られたのは、夫の農薬中毒にありました。また広島の出身で関節被爆を受けており、医師よりこれ以上百姓に携わってはいけないと忠告を受け、決断せざるを得ませんでした。サンパウロの街に出て波乱万丈な人生を送り、夫は67歳でこの世を去りました。原爆症が原因でした。私は今年の(2025)8月で90歳生き永らえています。
開拓当時の思いを綴った歌を書き留めた日誌が見つかりました。俳句ではなしに歌で当時の思いを詠っております。
丸太橋架けて拓きし原始林墾家に聞こゆ斧を振る音
密林の命をつなぐ谷川の流れに今日も明日の米研ぐ
我が土地を得たる喜び古里の父母に綴れるランプの下に
独立の喜びしかとかみして鍬振る腕に力こもれる
明日は早去らねばならぬ我が土地の木肌撫でつつ別れを惜しむ