ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(354)
二十一章
巨大破局➁
一九九〇年正月。
コチア産組のお家騒動は、その正月に持ち越されていた。しかも組合本部では、こんな話が流れていた。
「ケイロウは、運営審議役として戻ってきたら、(一九八一年に)クビになった時のシッペ返しをする。
組合内部の問題を暴く。ゼルヴァジオと小川さんを放り出す。執行理事会の専務の椅子を狙っている。その下の役員名簿も出来ている。レヴォルソン(反乱、革命)をやる。
しかし、ケイロウには暗い過去があるから、これは絶対避けねばならない」
そしてゼルヴァジオは、すでに記したように、ケイロウが選挙に出るなら、自分も立つ、と意志表示をしていた。
小説のような展開であるが、以後の動きは非小説的になる。
会長・専務の退陣を根回し中の監事会や選挙管理委員会にとっては、ゼルヴァジオの立候補は迷惑であった。
そこで北パラナ単協に、ケイロウ推薦の翻意を働きかけた。
単協中、最大の北パが手を引けば、興醒め気分が他に広がり、ケイロウ不利となって、形勢は元に戻ろう。
結局、北パはその働きかけに応じた。地雷は、再び不発に終わった。
ケイロウ推薦運動をしていた松原には、関係筋から「アレは駄目だった…」と報せがあった。
同時期「ケイロウがレボルソンをやるという噂が組合本部で流れている」ことが、サン・ジョアキンの当人にも伝わっていた。
以下、それに関する当人の話である。(一九九二年取材)
「本部に出張して帰ってきた南パラナ単協の理事長が、
『こういうデマが飛んでおり、放っておいてはよくない』
と言う。
確かにその通りで、会長と話し合う必要がある、と思った。そこで、会長の秘書に連絡をとり、面会の時間を取ってもらった。
その時は、北パラナが、私の名前を推薦名簿から外していた。南パラナは、こちらだけでも、名簿に入れるということであった。が、私は、もういいと断った。
会長訪問の時は、サン・ジョアキンの組合員二人に同行してもらい、組合本部に着くと、さらに監事二人にも立会いを頼んで、会長に会った。
そして私がこう言った。
『コレコレのデマが流れているそうだが、そんなデマが飛ぶということは、組合のためにもよくない。誰が言ったのだろう?』と。
そしたら会長が突然、血相を変えて、
『俺が言った!』
と。次いで、突然立ち上がって、何かひとこと、ふたこと…よく聞き取れなかったけれど、口走った。
それから、
『この忙しい時に!』
と、ポルタを叩きつけるように閉めて出て行った。
我々はアッケにとられていた」
対して、ゼルヴァジオは、次の様に語っている。(一九九三年取材)
「アレは、実際は、ケイロウがねじ込んできたのだ。
『何の用だ?』
と聞くと、
『自分は、何も悪いことをしていないのに…』
と言うから、
『おお、そうか、悪いことをしたかどうかは、お前が一番よく知っている筈だ』
と。これはプーリングのことだ。
そしたら、そばに居たのが、
『あのネエー、井上さん…』
と言いかけたから、
『その話なら、もう聞かん』
と席を立った。すでに終わったことだからだ」
前にも、この二人に関して同じようなことを書いたが、一つの状況を説明しているのに、双方の話は、これだけ違っている。
が、こうしたものであろう。
なお、推薦名簿からケイロウの名が消えたこともあり、ゼルヴァジオは、立候補しないことを決めた。
ゼルヴァジオは、再びケイロウの返り咲きを阻んだのである。が、今度は刺違えの観があった。
それは、存亡の淵に立つコチアに於いて──前回の危機回避の指揮を執った──ケイロウの経験を生かすチャンスが失われたことも意味した。
空転、空転また…
それから、月が二度替わって、三月二日。
この日の夕刻、ジャグァレー方面は、強風と雷鳴を伴う豪雨が沛然と降り頻っていた。
ところはコチア本部、大会議場。
そこでは朝から総会が開かれていた。
外部で天地が荒れた時間帯、内部はしばしば停電、議事は中断した。
その中で会長、専務の退任、相談役就任のための〝儀式〟が進行中だった。
しかし内容は形式的に過ぎた。組合員代表が両者の功績を讃えれば、二人がこれに体裁よく答えるという具合で、しらじらしく空疎なものだった。
例えば、その組合員代表の小川に対する讃辞の中には、
「…(略)…ブラジルが第一次石油危機で甚だしく揺れ動いたときから…(略)…休む間もなく、組合には擦り傷一つも負わせないように、念には念を入れて尽力なさったのでした…(略)…」
という部分があった。(つづく)









