ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(386)
代って、それをなすべき立場に在ったのは、会長の吉田揚助である。しかし実は吉田は大の日本嫌いで、十数年、日本に行くことすらしていなかった。
中銀から最後通牒的に、増資か身売りかを迫られた時、倉持は吉田に「日本へ行って欲しかった」という。そういう相談もした。
この時、吉田は、何と答えたか。
「俺を殺す気か!」
と怒った、というのである。
八十四歳であった。
しかし、その程度の体力が無ければ、会長などに留まっておるべきではなかったのだ。
さらに死を覚悟してでも行くべきであった。武士ならば、あるいは多少でも武士の魂を受け継ぐ日本人なら「死に場所を得た」と、喜んで行くべき局面であった。
もし不幸にして、事成らぬまま落命したとしても、その責任感は、末長く世の語り草となり、子々孫々まで誇りとなったであろう。
橘が生きておれば、この時の吉田より老齢であったことになるが、一命を賭して訪日したであろう。
イヤ、橘ならば、それ以前に、大統領に迫ってマウシの要求を撤回させたであろう…。
吉田は、前章で触れた様に、社長候補が急死したため、代わりにそのポストを得た。しかも相応の仕事もしなかったのに、会長になっている。
会長としては、伝田や倉持に総てを任せ放しであった。気も弱っていた。
それを物語る哀し過ぎる話すらあった。
「俺をクビにしないでくれ」と、涙ぐみながら、格下の伝田や倉持に頼んだ…というのだ。
倉持は「しませんよ、しませんよ」と優しく答えてやったそうである。
筆者は、南銀身売り後、当人の言い分も聴くべく、人を介して吉田にその意を伝えたことがある。が、応じなかった。
筆者がそうしたのは、日本行きの件以外に「会長として、コロニアに、身売りの事情説明をすべきところを、していない」という無責任極まる事実があったからである。
「南銀はコロニアの銀行であり、コロニアの財産」と、前任者たちは繰り返していたものだが…。
会長が、そういう調子だったのなら、別の一世の役員が、何故、救援交渉のため日本へ行かなかったのか?
実は、その「別の一世の役員」が一人もいなかったのである。戦前一世は吉田以外居らず、戦後一世は前章で触れた様に、傍系会社へ移されていた。
戦後一世が居たら、自ら求めて東京へ飛んだであろう。富士が駄目な場合、別の銀行に当たったであろう。
それが実現、南銀が救われた可能性が…実は…有ったのである。
前記した「融資という形で米国から増資資金を持ち込む」という方法に関して、後に、やはり進出組の三和銀行の代表者が、
「私に言ってくれたら、それをやってあげたのに…」
と、南銀の坂口孟(前章参照)に話した、というのだ。
総てが終わっていたから、気楽にそう口にした…のではなく、その言葉を信じられる人柄だった、という。
とすれば、三和以外の進出組の銀行でも可能性はあったことになる。
しかるに吉田は、日本行きはおろか、サンパウロで進出組に相談することすらしていなかったのだ。
前章で記したが、筆者は南銀の落城後、坂口の口から「あの時、揚助を叩き斬っておけば、銀行の最期が、こういう無様な姿には、ならなかったのだが…」という言葉を聴いた。それは、以上のような内情を指していたのである。
ところで、その吉田を社長や会長にしたのは、誰なのか。これが橘なのである。
橘は一九六〇年代、まだ宮坂国人が元気に銀行へ出勤していた頃から、経営の実権を任されていた。人事に関しても、そうであった。(つづく)









