ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(382)
二十二章(終章)
巨大破局➂
そして南銀も…
一九九六年、南米銀行の名誉会長、橘富士雄が永眠した。八十四歳だった。
当時、日系社会では、この人ほど存在感のある指導者は居なかった。
筆者は、橘が日本から来た著名な政治家や財界人と会っている場に、取材記者として居合わせたことが何度かあった。が、人間としての重みは、むしろ橘の方があるのではないか…と思ったものである。
しかし、では、どこが偉かったのか明示しようとしたり、日系社会史上の位置づけをしようとしたりすると、困惑する。特に、その没後二年目に起きた南銀の落城を見てからは、そうである。
さて、この落城であるが。──
一九九八年二月。またも、それを聞いた人々が「馬鹿馬鹿しい…」と一笑に付す噂が巷に流れた。
「南銀が経営危機にあり(業界準大手の)ウニバンコに身売りを交渉した。が、話はご破算になった」
というのである。
筆者も信じなかったが、噂は消えない。
そこで南銀の役員秘書室に電話を入れ、山根剛室長に訊ねてみた。山根は具体的な内容には触れなかったが、重大な局面にあることは、受け答えのニュアンスから察し取れた。
「預金者を泣かすような事には、ならないでしょうね」
と訊くと、重苦しく、こう応じた。
「できるだけ、そうならないよう努力している」
釈然とせぬまま、しばらく後、今度は倉持紀副社長へ電話をしてみた。返事はこうだった。
「南銀が債権の取立てを厳しくしているので、その相手が、わざとそういうデマを流している。
今は南銀に対する投資家を探している。経営規模の拡大は時代の要求。
南銀と同クラスの中堅銀行は、何処も合併その他の方法で、それを進めている。南銀は最後のケースだ」
しかし噂の方は、
「預金を早く引き出さないと、コチアの時のように、それが出来なくなる。南銀の役員の奥さんでさえ、自分の預金を全部引き出す、と言っていた」
という具合に、エスカレートするばかりである。
三月の末、再び倉持に電話をすると、
「騒いでいるのは日系人だけ。外人(非日系人)は、むしろ預金が増えている。
カルナバルの直前、バストスとマリリアで引出しが急に増えたので、万一を考え、外資で五、〇〇〇万㌦借りて備えた。が、カルナバル後は鎮まった」
という説明であった。
ところが、数日後の四月三日、突如オ・エスタード・デ・サンパウロ紙が、
「スダメリス、南銀買収を今日発表」
と報じた。やはり危機だったのだ。スール、コチアに続いて、コロニア最後の城も落ちたのである。
しかし今回も、余りにも唐突のことで、誰もが事態をよく呑み込めないでいた。
これは南銀側の事情説明が焦点をボカしていたことによろう。
中銀が奇襲
危機説が流れた時、
「潰れたりすれば、金融不安が起こり、国家的にも由々しいことになる。政府が放っておく筈がない。南銀を救うだろう」
という見方が、少なくなかった。この場合の政府とは、中銀を指す。
ところが…である。
筆者も、後から知ったのであるが、実は、南銀を身売りに追い込んだのは、その中銀だったのである。
「何故、そんなことを中銀がしたのか?」については、次項で詳述するが、その「身売りへの追込み」は、不意を突く様になされた。「奇襲」の観があった。
これが突発したのは、一九九七年末近くから九八年初めにかけてのことである。
それより以前、九七年三月から六月にかけて、南銀は中銀の監査を受けた。
中銀は、国内の総ての銀行の監督機関であり、時期を選んで「それぞれの銀行の業務が、適切に行われているかどうかを調べるため」監査官を派遣する。
南銀に対するそれでは三、四人の監査官が毎日来て、行員たちと談笑しながら、仕事をしていた。結局「コンピューター化の遅れを指摘した」ていどで終わった。
ちなみに南銀は同年、上半期決算で二、二〇〇万レアルの純益を計上していた。純資産は三億九、〇〇〇万であった。(為替は一㌦が一レアルを微かに越していた)
但し「問題ある債権」をかなり抱え込んでいた。返済の焦げついた融資のことである。(つづく)









