ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(376)
コチアでは…
このスールの自主解散を見て、何かを感じたのが、コチアの審議役ケイロウである。筆者と会話中、
「二年で、元のスールに戻るだろう」
と予測して、何度も頷いていた。コチアにも同じ選択肢があると、気づいた様子であった。
また、
「六、〇〇〇万融資は出ない。あとは一日も早く経営を、我々組合員の手に取り戻すしかない」
と、口にするようになっていた。全体的な流れから、そう判断したという。
この頃から六、〇〇〇万が出ないことで、会長イリネウに対する組合員の不満が、噴出するようになった。
(以前、理事たちには対政府折衝の能力がない、ということで雇った)三人のコンサルタントに対しても、同様であった。成果の上がらぬ三人との契約打切りを求める声が、日々、強まっていた。
邦字新聞も、イリネウに対する批判記事を掲載するようになっていた。
そのうち、イリネウが共同記者会見をしても、取材した邦字三紙が、一行の記事も載せないという珍事すら起きた。申し合わせて、そうしたのではなく、偶然そうなったのである。新聞はイリネウの話を信用しなくなっていたのだ。
五月、三人のコンサルタントとの契約打切りが決まり、次いでイリネウも辞表を監事会へ預けた。
同時期、州知事フレウリは、陳情に訪れたコチアの代表に対して、以前、口にした「バンコ・ド・ブラジルが融資しなければ、バネスパがする」を繰り返し「一週間以内に出す」とまで確約した。
が、それは実現しなかった。
コチアの事業量は、一九九三年五月の瓦解表面化以降、減少し続けていたが、デスセントラリザソン後も、回復は見られなかった。生産物を抜け売りし、営農資材を外部から買う組合員が激増していた。
この頃(一九九四年六月末現在)、出荷物代金、フンド・ロタチーボのプレーゾ分はかなり減少していた。無論、その後の──ゼルバッチが禁止するまでの──出荷物のリベラソン、組合資産との交換など強硬手段の結果である。
が、そういう手段がとれなかった人々も多数、取り残されていた。
例えば、コチア信用組合に長年務めた女性職員は、退職金三万㌦を、フンドの担当者に頼まれて預金した。が、直後プレーゾになり、そのままになってしまっていた。
ある組合員は、出荷物代金のプレーゾ分を、組合の所有地と交換することにした。が、土地の価格はプレーゾ分の倍額であった。幸い資金があったので、差額を組合に支払った。土地は遠隔地にあったため、地権については、確実性を組合側に何度も念押しした。「大丈夫、大丈夫」という返事が帰ってきた。
が、地権譲渡の書類ができたので、現地の登記所へ行くと、すでに債権銀行が差し押さえていた。
差額の支払い分も戻らない。
本人は頭がおかしくなってしまった。
別のある組合員は歳を取ったため、農地を売った。その金を老後の生活費に充てようとしていた。が、組合から「フンドは、銀行より利子がよい」と誘われ、預金した。直後プレーゾされた。夫人はショックで死亡、子供たちからは、悪く言われ続けるようになった。
この種の話は、数限りなくあった。
決定的様相
一九九四年も下半期に入ると、コチアの瓦解は決定的な様相を呈していた。
ある債権銀行が、同行を通過したコチアの、かなり高額の小切手を差し押さえた。
従業員の給与の遅配は、一段とひどくなった。
解雇も大規模に進められていたが、その退職金さえ支払いが遅れていた。
そうした中で、幹部・中堅を含む職員たちが、支払いが遅れている給与の代わりに(銀行融資の抵当に入っていない)組合資産の引渡しを、辞表提出中のイリネウに迫っていた。
この資産の引渡しについては、運営審議会で、
「それをするなら、給与支払いが遅延している従業員全員を対象に考えるべきだ」という確認がなされていた。
が、リオ・デ・ジャネイロの事業所では、セアザの販売ポストの使用権が、支配人たちの手に渡っていた。イリネウに直接、強引に交渉、手に入れたのである。
審議会の確認事項が、会長の手で破られたことになる。
これを地元の組合員たちが知ったときには(使用権譲渡に関する)法的手続きは終わっていた。
サンパウロでも、組合本部の職員たちが、やはりセアザの販売ポストの使用権を要求、イリネウの承諾書を手に入れていた。
さらに、養鶏部門では種鶏場の施設を要求、その他の部門では「電話の権利、商標権などをよこせ」…と騒ぎだしていた。
コンピューターを止め、ウイルスを入れると脅迫する者まで現れた。
さらに、職員たちによる組合の生産物…例えば食料油などの横流しといった不法行為も起こっていた。
この横流しは、実は数年前から始り、以後その規模が、ドンドン拡大していたという。(つづく)









