ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(379)
閉鎖したところは、運転資金を殆ど持たずスタートを切っていた。その資金繰りの苦しさの中で、組合員の組合離れが続いた結果である。生産物の市況も依然悪かった。
単協の閉鎖は、以後も続いた。
中央会の再組織の可能性は消えて行った。ただ、存続単協は、いずれも、その組合名の一部に「スール・ブラジル」の文字を残した。
コチアも、解散の直後から見通しは暗転していた。
不動産市場の冷え込みに加え、債権者からの訴訟が想像を絶する数になり、それが片付くまでには十年、二十年を覚悟せざるを得なくなったのである。
訴訟は九七年までに四千件を上回った。
組合以外に、民事・刑事で、旧役員が個人的に訴えられたケースも百数十件あった。
組合が訴えられたそれは次の通り。(単位=件数)
労働関係=二千六十三
税金関係=八百三十一
その他=千二百十三
労働関係は、原告は元従業員で、未受領の給与や退職金の支払いを請求していた。
その他というのは、原告は債権銀行などである。出荷物代金やフンド・ロタチーボのプレーゾ分に関する被害者の訴えも、含まれていた。
フォルネセドールは、無かった。訴えても無駄と見切ったのだ。清算人のケイロウが、
「一件もないよ」
と意外そうに言っていたのが、印象的だった。
ともかく右の様な訴訟件数であった上、清算人が資産売却の許可を裁判所から受けても、それに異議を唱える債権者の訴えが、横合いから次々と起こされた。売却は進まず、負債の消去は遅延に遅延を重ねた。
負債の支払いの優先度では筆頭の労働関係でさえ、清算人就任の三年後までに片付いたのは、三割ほどに過ぎなかった。
コチアの場合、解散時の「負債と資産」の関係は不明である…というのはヘンな話ではあるが、これは一九九三、九四年と、決算書が作成されなかったことによる。
九三年分は、五月の瓦解の表面化以降、内部で混乱が続いたため、作成できなかった。同年の決算書が存在しないのだから、九四年のそれも作りようがなかった。
これで困るのは、以後の清算業務を追う上での基礎資料が無いことである。負債額も、その内訳も、正確には不明となってしまった。
単協は、次々と、その活動を停止していた。解散時には十単協が事業所を率いて、自主採算制で活動を継続しようと図ったが、それは成らなかった。
この内、サンパウロ近郊、聖南西、聖北、聖西、リオの五単協は、当初、合併して再出発すべく動いた。(いずれも近郊型生産物を扱っていた関係による)
名称はCAESP=サンパウロ州農業協同組合=とし、役員会も五単協の代表者によって構成した。
これが一九九五年のことであるが、名称を変更しただけで、法的には旧コチア産組の後身と見做されたため、債権銀行の執拗な取立てに遭い、九六年には閉鎖してしまった。
北パラナ単協も、名称を変更、同地方の十三、四カ所の部落の参加を得て事業を継続しようとした。(部落は二十数カ所あったが、他は不参加)
が、CAESPと同じ壁にぶつかり、九五年末、全く別法人としてインテグラーダ農協を設立した。
その他四単協は、それぞれ経緯は異なったが、事実上の閉鎖状態となった。
こうした中で、単協とは関係なく、部落単位の組合員グループで、新しい組合や会社を設立して、活動を続けようとした所があった。
ミナス州サン・ゴタルド、サンタ・カタリーナ州サン・ジョアキン、バイア州バレイラス、その他サンパウロ州イビウーナ、パラナ州カストロなど多数である。
その中には長期的に存続することになる処もあったが、短期で消えた処も少なくない。
いずれも──スールと違って──どこも、その名称に「コチア」の文字は入れなかった。これは「コチア」を名乗っていると、債権者が追及してくるので、嫌気がさしたのである。(スールは、名称を維持しても、債権者の追及はなかった)
それと、組合員たちが、コチアの経営の内情を知り、自分達が騙されていたことを知ったことにもよろう。コチアの文字入りの作業帽すら誰も被らなくなった。
結局スール、コチアともお家再興の望みは消えた。
シェークスピア並の…
筆者はスールの解散後、一年に一度、富森清算人に電話を入れて、その後の動きを訊くようにしていた。
富森は、最初は「資産を売却できず、清算が進まない」ことを嘆いた後、
「体調が悪い。神経から来ている」
と言っていた。
二度目は、
「頭が痛い」
と繰り返した。
これは例えば「難題に苦しんでいる」という意味ではなく、言葉通りの肉体的な痛みに襲われている様子であった。(つづく)









