小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=8

 汽車の中で出たサラミのサンドイッチが喉に通らなかったので、油粥のようだと思いながらもお替りをする人もいた。
 万事に勝手がちがっていた。水洗便所を知らないので水が出た!と叫んで飛び出したり、その叫びを聞いて黒人の掃除人が駆けつけてくると、今度は黒人を怖いと叫んで逃げだしたり……面喰うことばかりだったが、初めての日本人を迎えた収容所の待遇もよく、コーヒーの木に金が成っている国にやっと着いた、というので誰もが陽気に浮かれていた。
 中でも景気のいいのは家長たちだった。十年たったら大金持になって日本へ帰るという男もいれば、十年などかかるものか五年だ、いや三年だ、と賑やかに騒いでいた。
 とにかく、一万円貯めたら帰る、というのが平均的な夢だった。その夢のために、ブラジル側の一人六十円の補助金があったとはいえ、借金をしたりして一人当たり百六十五円の旅費を払込んで船に乗ったのだった。
 日本で百姓の日雇いが飯付き二十銭、巡査の月給が十円の明治末に、ブラジルのコーヒー園で働けば一人一月三十五円になるというのが、移民会社の宣伝だった。もし家族五人で働いたら、毎月百七十五円という途方もない金が転がり込む計算になる。家族の船賃の借金など半年以内に返せ、あとは全て貯金だ。送金だ。……その、夢のような国へようやく着いたのだった。家長たちが有頂点になって騒いでいるのも無理はなかった。
 皇国殖民会社からは、社長の水野竜とブラジル代理人上塚周平が来ていた。通訳たちは上塚と鈴木に協力してあらかじめ契約してあった六つのコーヒー園に移民たちを配分した。
 この収容所の中には公認周旋人のボックスがあり、各国から来た移民たちは周旋人を通じて好む条件の農場と契約できるシステムになっているのだが、日本移民はすでに移民会社と農場の間でとりきめが交されていたから、改めて公認周旋人の手をわずらわす必要はなかった。

 収容所に着いて八日目の早朝、嶺通訳は沖縄移民二十四家族と共に、カナン・コーヒー園へ向って、奥地行きの列車で出発した。
 同日午前十時に大野通訳は笠戸丸で来た夫人と共に沖縄移民二十三家族を連れてフロレスタ・コーヒー園へ出発した。
 翌日、二十八日の早朝、加藤通訳は各県混成の五十二家族を連れてヅーモント・コーヒー園に向った。長い船旅ですっかり親しみあった人々は、残るもの発つものお互いに痛切な別れと励ましの言葉をかけ合いながら別れていった。

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