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レクイエム(鎮魂歌)=ブラジル日本文化福祉協会 理事 林 まどか(宗円)

2025年7月10日

 ゴーギャンの有名な言葉に「我々はどこから来たのか、我々は何物か、我々は、どこに行くのか」という、1897〜1898年に南太平洋のタヒチ島で製作された絵画があります。これは、彼の代表作で、人生の存在と意味を問う言葉として知られています。
 この6月に、文協の巨星が二つ墜ちました。故呉屋新城春美さんと故大原毅さんです。
 側にいた私は、この二人の亡くなられた方を悼み、その魂の安らかな眠りを願うためにこの拙文を捧げます。その思い出をここに語り、鎮魂の意とします。

呉屋新城春美さん
呉屋新城春美さん

 先ず、故呉屋新城春美さんですが、2015年に、第12代女性初の文協会長として、選出されました。州財務局の高級官僚でありましたが、半年前の10月に退職して、文協の役職に就くための準備をしておられました。当方も呼ばれ、文協第三副会長としてお手伝いをしました。
 とにかく春美さんは正義感の強い方で、文化というものに対して、審美眼を持っておられました。一緒に着物ショーをしたときも結構チェックが厳しかったように思います。そうして、メインは、2018年のブラジル日本移民110周年の眞子さまをお迎えした時でした。式典委員長を務められ、実行委員長の菊池義治様と、式典を盛り上げられました。
 会長職は、財務というかお金がかかります。この時代につくられた奉加帳(カデルノ・オーロ)には、多額の寄付をされたこの二人と現文協会長(当時、宮坂国人財団理事長)の西尾ロベルトさん等の名前も記載されています。
 春美さんは名ばかりの会長では無く、毎日会長室に来て、文協の動きを見ておられました。この時代、忠実に毎日詰めておられたのが、当時第一副会長だった松尾治様です。会長職はボランティアで、時間とお金がかかります。よって関心はあるが、一般的に、誰も、役職は、あまり引く受けたくないのかもしれません。
 今年5月に旅行先から戻り、春美さんの容態を聞いた時、ずいぶん迷いましたが、お見舞いに行きました。長く頑張られた春美さんに是非会いたかったのです。病室には、最愛の夫のミルトンさんが控えておられました。彼女は、何度も「病院にいることを人に知らせないで」、と言いました。
 彼女の矜持が、この言葉を吐いたのかもしれません。佳子様ご来伯の式典の時は、壇上に並ぶはずの春美さんがいませんでした。見舞いから三週間後に他界されました。
 このお会いした時の、春美さんの静かな、面持ちを忘れることができません。もう役目は終わったと思われたのか? 
 親戚のおられるオーリンニョスで、埋葬されました。しずかに安らかに、御眠りください。貴女は偉大でした。  合掌

大原毅さん
大原毅さん

 故大原毅先生は長年、総領事館の顧問弁護士を勤められ、文協、滋賀県人会、ふるさと創生会、サンパウロ援護協会、ブラジル日本移民史料館、人文研など多くの役職を持ち、お手伝いしておられました。その温和な人柄と、俊敏な弁護士の腕は、多くの方から尊敬を得ておられました。
 当方も長年お世話になり、裏千家淡交会の幹事でもあられました。故妙子夫人とは、とても仲の良いご夫妻でしたが、妙子さんが、早く逝去されたのでさぞ、お寂しかったのでは、と思われます。
 良妻賢母の妙子さんは稀にみる日本女性でした。真の大和なでしこでした。大原先生のお葬式には、多くの方が集まり、別れを惜しみました。亡くなられても、そのお顔は高潔でした。そのご母堂は百歳近くまで存命でした。大原先生も、もう少し生きていてほしかった。

満開の こぶしの下に 知己は逝く 夢庵

 近くにこのお二方の死を目にして、つくづく思いました。
 死ぬと言うことは? 生きるということは? 冒頭のゴーギャンの言葉が思いうかびます。
 ブラジル日本文化福祉協会の偉大な人を二人失い、寂莫とした思いです。
 そして生きることの意義を、思い起こしています。


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